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日経さんその社説ならもう書いたでしょ

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 共謀罪が重要な問題であることはわかるが……

 以前書いた社説とほぼ同じというのは、どうしたものか。

 同じ繰り言を何度も垂れ流すというのは、日経さんに認知症の兆しがあるのではないのか。

 以前の社説は下の↓で、これを書いてからまだ一月半ほどしか立っていない。

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 以前はとにかく「説明」すればオッケーという話。

 今度は、どんな形であれ「審議」さえ済ませればオッケー、というものである。

 日経さんの言う「十分」とはそう言うニュアンスである。

 

 認知症に限らず、人は往々にして同じことを話して嫌がられることがある。

 同じことを話すことそのものが良くないのであれば、落語家なんぞはとっくに滅んでいるはずだ。

 人が同じことを話して嫌がられるとき、その内容はおおよそがその人の「享楽」に繋がる性質を持っている。

 日経さんの「享楽」とは、政権から距離を置きながらそれを支援してみせるという、部屋の隅のくずかごに丸めたティッシュを投げ入れた時のような、そうした類のものである。

 そうすることで、自らの立ち位置を守って動くことなく、政権の役割を果たさせることができる訳である。はっきり言って、「バカジャネーノ」と思う。

  「享楽」とは、他人から見て無価値の快楽なのだ。

 

 じじいの繰り言に付き合ってるほど暇ではないので、前回の社説について書いたエントリーを上げておこう。

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 こちらももう一度同じことを言わせてもらうなら、テロの防止とかぬかすんなら、「カジノ法案」なんか通してんじゃねえよ。それだけで「テロ」でんでん、いや云々の言い訳なんざウソだとわかるってもんだ。

 

恍惚の人 (新潮文庫)

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裸でも平気な王様たち

 その昔、ヨーロッパの王侯・貴族は国境を越えて婚姻を重ね、幾重にも血縁を結んでいた。

 彼らにとって、自国の民よりもむしろ他国の貴族の方が慕わしい存在であった。

 旧称ECが出来上がりつつあった際にも、国境をやすやすと超える貴族の復権を懸念する声があった。実際、ECの議長をハプスブルク家の子孫が務めていたこともある。

 こうしたアンシャン・レジームとしてのグローバリズムを乗り越えるため、政治的実験として現EUは成立したのだと言える。

 

 現代における新たな経済的グローバリズムは、政治的なそれを嫌悪する。なぜなら、国境を越えての商売は、国境を越えられないものたちを搾取することで、旨味が何倍にもなるからだ。

 経済的グローバリズムも、アンシャン・レジームとしてのグローバリズムも、「上」と「下」の間に越えがたい壁をせっせと作りあげるという共通点がある。

 そして、その壁はおおよそ国境よりも高く丈夫である。

 冷戦を知らない子供たちが壮年となり、経済的グローバリズムは新たな「貴族」を形成しつつある。

 その「貴族」に対抗する戦略として、下々の民らがとった方法がポピュリズムである。よりにもよって。

 

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 ポピュリズムが愚かしい選択であることは論を俟たない。

 だが、その愚かさの淵源は経済的グローバリズムが生み出した、乗り越えがたい「格差」にあることを知るべきだろう。

 「格差」を経済学的に論難することは難しい。現に、一部を除き、経済学者どもはこぞって格差を肯定している。

 しかし、社会的に見れば、「格差」は明らかに多くの人々を「愚か」にする。

 いくら社説で保護主義を難じ、大恐慌の歴史を鑑みて警告を鳴らそうとも、そうした視点がなければ自分のたれた屁に文句を言ってるのと変わらない。

 

 古来、大衆の支持を取り付け名君と呼ばれた王は、洋の東西を問わず、おおむね貴族政治の破壊者としてあらわれた。

 マキャベリ君主論で待望しているのも、そうした王である。

 ポピュリズムによって人々が支持するのも、そのようなタイプの「王」に対してだ。

 祭り上げられた王様は、確かに裸だ。

 しかし、民衆は王様が裸でも平気だし、むしろ裸であることを喜んでいる。

 そして、そんな愚かな民衆を育て上げたのが、「格差」と呼ばれる栄養なのだ。

 「格差」とは、新自由主義を苗床とし、日経さんがせっせと水や肥料をやってそだてた、致死性の甘い毒をたっぷり含む黄金のリンゴなのである。

 

 

裸の王様

裸の王様

 

 

楽はなけれど苦はいつもある

 まずは詫び口上である。まことに申し訳ない。

 昨日以下のようなエントリーで、

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本来なら、この件について社説を書くべきところを、なにやら別れても好きな人めいたことをだらだらと書いているのは、よっぽどショックだったのか。 

 

 などと嘲弄してしまったが、日経さんはちゃんと社説に書いた。

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 ただし、筆の勢いに任せたひどい書きなぐりで、隠居ジジイの愚痴だってもう少しマシなんじゃないかという仕上がりである。リライトしてまとめた方にはご同情申し上げる。

 ともあれ、要らぬ先入主で侮蔑をなしたことについて、素直に頭を下げたい。

 

 で、もう一つの社説の方なんだが、

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 政府による賃上げ要請という、あべぴょんの人気取りのための田舎芝居だが、さすがに4回目ともなると支持率への効果が薄いようだ。付き合わされる企業側も、いい加減だれてきているようである。

 

 賃金が上がって消費が伸び、企業収益が拡大してそれがまた賃金を増やすという「経済の好循環」を政府は描く。実現のため、政府はやるべきことをやってほしい。

 

 日経さんは政府が「やるべきことをやって」企業の業績を上げさえすれば、賃金も上がって日本経済も好転する、と幼い日の夢を捨てられない成長し損ねた青年のようなことをおっしゃる。

 もはや、企業と労働者が同じ夢を見ていられたハネムーンは終わったのだ。

 現状の日本は、あまりに弱い労組という、高度経済成長期には促進剤となったものが、逆に毒となって身体を蝕んでいるという有様である。

 現政権はその解決にまったく資するところがない。あくまでも改憲することによって永久自民党一党独裁を完成し、総理を王のごとく民があがめる世を作ることに邁進している。

 それは日本を自民党の植民地とすることであり、その目的はとりあえず植民地原住民を低賃金で使役したい企業側の利益と合致している。

 そして、日経さんも「王侯の民への温情に苦言を呈する」という格好で、田舎芝居に参加しているというわけだ。

 こうした同じ演し物を飽きることなく続けられるのは、やはり水戸黄門がずっと続くことと関連しているのだろうか?今度は武田鉄矢だそうだが。

 

 

水戸黄門(1960年)
 

 

アメリカ恋しやほーやれほーな日経さん

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 米国が加わったTPPが理想型なのはたしかだ。しかし、トランプ米政権が近い将来にTPPに復帰するとは考えにくい。

 米国にはいつでもTPPに戻れるように門戸を開けておく。同時に、次善の策として、米国を除く11カ国でTPPを発効できるように、発効条件の変更といった協定内容の部分的な見直しの準備も進める。

 

 なんだか女心の未練というか、いつまでもいつまでも待ってますというか、一昔前の演歌とかニューミュージックみたいな話だ。

 まあ、4年なんかあっと言う間だから、次の大統領に期待したいのかもしれない。

 しかし、世界の現状はこんなもんである。

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 本来なら、この件について社説を書くべきところを、なにやら別れても好きな人めいたことをだらだらと書いているのは、よっぽどショックだったのか。

 EUにおいても保護主義を唱える勢力は徐々に力を増しており、トランプへの配慮というだけでなく、グローバリズムを打ち出す姿勢が弱まってきている。

 残念ながら、先進各国が保護主義に走ったとしても、「経済」がすぐに悪化することはないだろう。

 そんな中で日本はどのように振舞うべきか。ただ一国となっても、「グローバリズム」の旗を掲げるべきだ、などと「お花畑」なことを口にしつつ内心は違っているのは見え見えだ。

 結局アメリカへの未練だけで日本が動いているのなら、他の国々がついてくることはあまり期待はできない。

 それよりもその「未練」を見透かしたアメリカが、恋情冷めやらぬ日本を存分に嬲ってくださることだろう。

 

 

津軽海峡冬景色

津軽海峡冬景色

 

 

経済を忘れた日経さんは歌を忘れたカナリヤよりも価値がない

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 画期的だと騒ぎになっているが、6年経ってやっとまともな判決が出たな、と考えるのがごく普通の感覚だろう。とはいえ、まだまだ先があるのだろうが。

  そして、この判決における重要な点について、日経さんは社説で触れないように気を使っている。

 

 従来の司法判断の流れからみれば大きく踏み込んでおり、唐突な印象も否めない。だが、つねに万一の事態を想定し、安全を確保するための備えを尽くすべきだとする裁判所の考えが明確に示されたことの意味は、重い。 

 

 津波が来ることは想定の範囲であったにもかかわらず、東電の「経済的合理性」を優先したことが問題なのだ。

 原発の「安全神話」を犠牲にすることで、もう一つの神話である「格安神話」を守るためである。

 その背景には、経済を最優先することで、その他の重要な事柄をすべて後回しにする「思想」がある。

 

2002年に巨大地震発生の可能性を示す長期評価が出され、国と東電津波が来ると想定できた。それを受け国は東電に対策を命じる権限があったのに、怠った。判決はそう結論づけた。 

 

 2002年といえば、あの政権である。

 日経さんは、「あの政権」と思想を共有していた。そして、それは今もそのままだ。

 もはや、原発の「安全性」は「経済的」であるとはいえない。それは東芝の例にまざまざと現れている。日経さんが「安全性」ばかりを云々することで、経済性について触れないのは、日本「経済」新聞の名にもとる行いではないのか。

 それから、言わでもの事かもしれないが、今はぬけぬけと「反原発」を口にする、「あの政権」の長についてもう一度評価し直す必要があるだろう。インタビューしたって、どうせ反省なんかしやしないだろうし。

 

 

歌を忘れたカナリヤは、うしろの山へ捨てましょか

歌を忘れたカナリヤは、うしろの山へ捨てましょか

 

 

妄想と現実の区別がつかない自民党のお姫様

 まず、森友の件について思うところを少し。

 まったく予断を許さぬ展開で、あれよあれよと言う間に事態は意外な方向に展開しつつある。

 しかし、籠池=菅野ラインにばかり「居着いて」しまうのは、やはり危うさを感じる。

 家系、じゃなくて、加計 (かけ)学園のほうも押さえてもらいたいものだ。まあ、エンタメ的には籠池のほうが上だから、当面は仕方ないのだろうが。

 それと、検察が動かないことについては、例の事件以降まったく信頼していないので、それはそれでかまわない。現政権を支援する方向でしか動かない、ということであれば、動くタイミングはまさに「今」なわけなので、どうかそのままじっとしててくれ、とすら思う。

 

 さて、日経さんが稲田についてあれこれと言ってるわけだが。

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 日経さんが森友の一件についてあまり触れたがらないのは、第3会議室で夜な夜な「あべしゅしょうがんばれあべしゅしょうがんばれ」という呪文を唱えながら、ぱんいちで肩組んで輪をかいて踊っているから、というだけではなく、確実に財務省にからんでくるからだろう。

 稲田については、財務省とまったく関わらないので、つっついてもかまわないというわけだ。

 

 しかし、日経さんの「管理」能力というものいいには、やや引っ掛かりを感じる。

 自衛隊の何をどう「管理」するのか。

 稲田が、いや自民党全体が、自衛隊の「戦闘」について親和的である以上、「管理」などできるわけがない。

 先日のエントリーで、

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現実に存在する「軍人」は、卑怯で卑劣でケチで小心、かてて加えて常習的な嘘つきである。 

 

 と書いた。

 そして、それを隠蔽するのは「兵隊さんよありがとう」的な心情であり、その心情はまったくの妄想でしかない。

 だが、その「妄想」を現実的だとし、その「妄想」に従わないものを排除するのが自民党という政党なのだ。

 その自民党のお姫様が稲田なわけだから、その周囲の人間がまともなわけがない。

 これは稲田一人の問題ではなく、自民党全体がかかえる宿痾といえる。

 

 

オタサーの姫 ?オタク過密時代の植生学?

オタサーの姫 ?オタク過密時代の植生学?

 

 

会社から「ぬらりひょん」を退治するには

 日本の会社には、たいてい一人「ぬらりひょん」がいる。

 週2、3回昼頃に出社して、新聞を読んでお茶を飲んで、日が落ちる前には帰ってしまう。他の社員がどんなに忙しそうにしていようと意に介さない。それでいて、普通の社員数人分の給料をせしめていたりする。

 「ぬらりひょん」がどういう時に役に立つかというと、トラブルが起きて「上」に迷惑がかかった時とか、「上」から無理難題をふっかけられてそれをなだめてもらう時とかである。

 「上」とは親会社だったり、お役所だったり、とにかくその会社が頭を下げねばならない対象のことだ。

 この「ぬらりひょん」が、俗にいう「天下り」である。

 

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現状では適任の候補者が不足しているとの指摘が多く、一部の学者やコンサルタントが多くの会社の取締役をかけ持ちしている。経営の知見があるかどうか疑わしい人物が取締役会に加わっている事例も散見される。

 

 日経さんはこのあいだの文科省天下りについて、今さらながら、すごく遠回しな物言いで、なにやら言おうとしているようである。ただし、一度読んだくらいではわかりづらく、お役所からクレームがつかないように。なんか落語にあったな、こういうの。

 社外取締役などと言いながら、そこが天下りの温床になっていることは、先般の文科省のゴタゴタで明らかになった。

 じゃあ、官庁出身者を社外取締役にしなければそれで済むのだろうか。

 

 投資家の声に耳を傾けると、上場企業の経営にたずさわった人材がもっと社外に出るべきだ、との指摘が多い。日本では経営の一線から退いても顧問や相談役として経営に影響力を持つことがある。経営陣がOBの助言を仰ぐのもよいが、優れた経営の知見を1社で囲い込むのでなく、幅広く生かす術を考えたい。 

 

 なんだかお上品なことを書いているが、こういう場合でも大体は「大企業」から「中小企業」へとの「天下り」になっているのが常態である。

 日経さんが理想とするような、企業統治に資する形には程遠い。

 企業が社外取締役という「ぬらりひょん」に求めているのは、近代的統治ではなく、前近代的な妖怪の神通力なのだ。

 具体的には、「上」に顔がきくとか、力を持つ人となあなあで会話できるとかいう、その手のものである。

 これらは「統治」を改革するどころか、むしろ阻害し、退化させる原因となる。

 

 「ぬらりひょん」は社会の同質性、いわばホモ・ソーシャルから生まれ出てくる妖怪である。

 ならば退治する対策としては、社外取締役

 

日本国籍を有するものを採用しない

・女性のみを採用する

 

 などが考えられるだろう。

 ただ優等生の作文で、出来もしないことを掛け声するだけなら、紙幅の無駄なのでやめてもらいたいものだ。

 

 

vs ぬらりひょん

vs ぬらりひょん