『バカの壁』は読んだことないが確かにバカには壁があるということ

レイシストを批判するのは差別だ」という噴飯物の論について、「そんなことを言うからおまえはバカなんだ」と罵る前に、なぜこんなバカなことを言ってしまうのか少し考えてみよう。

 

 まず、バカとは何か。簡単なようで難しい。

 一つ言えることは、誰でもバカになる可能性がある、ということだ。それは何十年も立ってすっかり脳が老化することを待たずとも、なんらかのきっかけでまったく言葉の通じない国に独りで放り出された時を想像してみればいい。

 現地の人間にとってわけの分からないことをしゃべる人間は、ほぼバカと同じに扱われるだろう。たとえノーベル賞級の頭脳の持ち主でも、まったく言葉が通じなければ、文盲や知的障害者と同レベルだ。つまり、われわれはいつでもそうした「バカ」になってしまうことがありうる。

 そこで、社会にはそうした「バカ」を受け入れる寛容さがもとめられる。文盲や知的障害者にはもちろん、言語の通じない外来者にもきちんとサービスを提供する、それが近代社会というものだ。

 

 「バカ」には「わかりあえない」という要素がある。

「わかりあえない」ものを人は「バカ」と呼ぶ。それは全体でなくても、精神の奥底に何かよくわからない流れがある、ということでもそのように言ってしまうようだ。人間はそれぞれに「バカ」であり、それを受け入れあうことで社会は成り立っている。

 そうした「バカ」を排除しようと考えると、どうなるか。「わかりあえる」同士ばかりが集まる安心感を、ゆるがしがたい絶対のモノとして大切にすると、バカを許容しない人たちはバカをやたらと殺したがるようになる。あれこれもっともらしい理由を付けるが、「死ね」「殺せ」と好んで口にするようになる。

 人間同士は「わかりあえない」部分が多いから、「わかりあえる」もの同士でかたまろうとすると、どうしても人間のあり方を否定したくなるようだ。

 

 さて、ここで「わかりあえない」ものを許容しうる人間が、「わかりあえる」もののみを認める人々、すなわちレイシストや排外主義者を「愚かだ」と批判したらどうなるか。

 レイシストたちにとって「愚か」であることは、「バカ」と同義であり、それは「わかりあえないもの」なので、自分たちが排除されていると感じるのだ。

 別に排除などしていない。「愚か」な、「バカ」な部分を修正すればいいだけのことだ。しかしそれをすれば今度は「わかりあえる」集団から、改心したレイシストが「排除」されてしまう。

 つまり、レイシストと非レイシストでは、「バカ」の意味が二重になっていて、間に越えがたい壁があるのだ。

 それゆえ、レイシストは「バカ」だ「愚かだ」と言われると、「差別されている」と騒ぐわけだ。バカだねえ。

 あらためて「バカというやつが『バカ』」の真理が確認されてしまった。

 

 そうした自分のバカさ加減に無自覚だと、こうした厚顔無恥なことが平気で言えるようになる。

安倍首相、ヘイトスピーチに「極めて残念」

http://www.asahi.com/politics/update/0507/TKY201305070355.html?ref=com_rnavi_arank

>「日本人は和を重んじ、排他的な国民ではなかったはず。どんなときも礼儀正しく、寛容で謙虚でなければならないと考えるのが日本人だ」

 

 おそらく、バカなので自分が矛盾することを言ってることに気づかないのだろう。そのようなものだけが「日本人」であるなら、充分に「排他的」である。

 こうした「排他的」なもの言いは、レイシストたちを調子づかせるだけだろう。

バカの壁 (新潮新書)

バカの壁 (新潮新書)

  • 作者:養老 孟司
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2003/04/10
  • メディア: 新書