ニセ科学とか放射脳とかそうしたものになぜ科学が無効になってしまうのか
まず、「家庭」というものはどのようにして存在するか。
家庭とは、死の記憶を自然から引きはがし、共同体へと付け替えるための最小の単位である。
ようするに、葬式ってのはそういうこと。盛大な葬儀をせずとも、夜空を見上げて死者がお星様になったのを確認したり、お盆に返ってくるのを出迎えたり、「ずっと心の中に生きてるよ」と口にしたり、守護霊がおねしょの治し方を助言してくれたり、そういうことでも「死」は自然界の現象から離れ、家庭へと帰り、共同体のものとなる。つまり、単に肉体が物理的活動をやめる、ということ以上の「意味」がつけ加わる。
では、その「死」が自然的なものではなく、人為的なものだったらどうだろう。端的に、誰かに「殺された」というものであったら。
家庭は機能不全を起こし、「死」は宙に浮いてしまう。昔はそれを防ぐために仇討ちをした。今なら裁判で死刑を望む、とかか。
放射能を例にとるなら、東電がばらまいた放射能によって多くの家族が機能不全を起こしている、ということになる。
「放射線は自然界にも存在する」と喚いてもへりくつにしかならない。
今実際にバラまかれている放射能は、東電によってまかれたことが明白だからだ。
家庭は人為的な死を怖れる。
死を「家庭のためのもの」「共同体のためのもの」とすることは、お互いを生成する根拠、いわゆる「倫理」の発生に関わってくるからだ。
だから、たとえどんなにささいなものであろうと、ただの「可能性」という程度のものであろうと、人為的な死を家庭は全力で避けようとする。
ここに、科学の出る幕はない。
だから放射「脳」と揶揄される人たちは、どんな科学的な説得にも聞く耳を持たないのだ。
反科学論―ひとつの知識・ひとつの学問をめざして (ちくま学芸文庫)
- 作者:柴谷 篤弘
- メディア: 文庫