科学を信じているはずの人がニセ科学信者と似た振る舞いをしてしまうのはなぜか

倉廩実則知礼節、衣食足則知栄辱

(倉廩実つれば則ち礼節を知り、衣食足れば則ち栄辱を知る)

 

「死」を自然から引きはがし、家庭のための、そして共同体のためのものとするには、豊かな財産があれば容易いことだ。ある程度の財産を持つ人が死ねば、それを受け継ぐものたちのためになるからだ。上記の『管子』からの引用にも見られる通り、古代からよく知られている簡単な事実。

 遺すものが地位や権力、名誉であってもいい。その人の死は受け入れられ、「倫理」を形成する素となるだろう。

 そして「財産」の有無は、家庭とエラい人との間に決定的な違いを生む。家庭は「死」を自然から引きはがす意志を持たねばならないが、エラい人は「財産」がそれを勝手にやってくれる。むしろ「財産」がなくてはその機能が停止して困ったことになる。

 

 では、そんなものが何もない場合、財産も意志もなければどうなってしまうのか。

 エラい人を崇敬してその代わりとすることになる。

 エラい人の発言に耳をすまし、命令された通りに行動し、望まれた通りに死ぬ。それによって、「何もない」人の死は自然から引きはがされ、ようやく「倫理」の素となる。

 

 家庭において「倫理」の形成に成功している人たちは、エラい人に反発することはないが、「崇敬」することもない。

 

 エラい人がその財産を形成する要素が、家庭を脅かすものであった場合、家庭が「倫理」形成の場として機能している人と、していない人すなわち「何もない」人との間に亀裂が生じる。そしてもちろん、エラい人との間にも。

 エラい人の「倫理」がその財産からくるものであるなら、財産を揺るがせるものは、エラい人の「倫理」を揺るがせるものであり、それは「何もない」人にとって許しがたいものとなる。

 

 その亀裂に科学が入り込むとどうなるか。

「死」と「倫理」の隙間がない家庭よりも、有形の「財産」に頼る側にその理を認めるようになる。財産であれば、客観的に見ることができるからだ。

 そして家庭に含まれる「死」を自然から引きはがす「意志」を、「非科学的」なものとして排除するようになる。エラい人は「意志」を必要としないから、その「意志」を不要にさせる「財産」は科学的に語り得るものとしてその存在が認められる。科学が「財産」を肯定する場合、その振る舞いはエラい人の「倫理」を肯定するのと似たものとなる。

 そして、科学を語りながらも、その振る舞いは「倫理」を守るための「意志」とほぼ同じベクトルをもつようになる。それが知性や理性や論理を基としていても、振る舞いは同じ曲線を描く。「意志」は非科学的なものとして科学者からはあらかじめ排除されており、「意志」を実在のものとして顕現させようとするものはおおよそ「ニセ科学」と呼ばれるようになっている。

 かくして、科学を語るものはニセ科学信者と類似してきてしまう。

 

 科学は、「死」の本来の居場所である「自然」にこそ、その足場が置かれるべきだ。が、科学者も人間であり、社会に組み込まれている。真に科学に徹するなら、発言せず記述することに徹するべきだろう。エルンスト・マッハが言った通りに。

 

 もちろん、上記のトラップにかからないやり方もある。

 それは個々人によって考えるべきなので詳しくは述べない。

 なお、ここでは「倫理」と記したが、本来はイデオロギーと呼ぶべきものだ。しかし今日、イデオロギーは間違った使用法で流布しているため、便宜的に「倫理」とした。

アルチュセール全哲学 (講談社学術文庫)

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