「がんばる」のは何のため?

NHKスペシャル『"新富裕層" vs. 国家 〜富をめぐる攻防〜』(8/18)のメモ

http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20130819/137685062

>「頑張った者が報われない税制」を彼ら「新富裕層」は批判するのだが、自分たちが世の平均的な人々と比較して100倍も1000倍も努力したから金儲けができたと信じて疑わない彼らの頭の悪さが私には信じられない。

 

「がんばった」人がどうしたとか、こういう物言いを信じる人の頭が果てしなく悪いことは自明だが、こうした言い様がすたれないのは、こう言っておけばとりあえずバカを騙すくらいのことはできるからだろう。たとえば池田信夫という人とか、あのあたり。

 

 人は何のために「がんばる」のか。

 たとえ失敗するおそれがあっても「がんばる」のは、「信用」を得るためである。

 

 「信用」はどのようにして得られるか。

 とりあえず、大金持ちになれば、銀行は信用してくれる。鬱陶しいくらいに。社会的名声とか、ステータスを得ることでも信用はついてくる。東大を出るのも良いだろう。甲子園で優勝したり、ミスなんとかを勝ち抜いても、宝くじが当たってもなんらかの信用は得られるだろう。

 しかし、信用が持つ本来の機能はそんなものではない。

 まじめに、着実に、きちんと働いていたならば、たとえ貧しくとも大した才能がなくとも、地位と名声がなくとも、信用はついてくる。ともすると前段で例に挙げた人々以上に、信用される。共同体的な社会というものはそういうものであり、またそうでなければ正常に機能しないものである。

 

 「信用」とは、共同体的な社会の中で居場所を得ることだ。

 「がんばる」ということの目標が「信用」を得ることからはずれ、単に「金儲け」にすり替わった時、社会の共同体的な有り様は崩れ、正常な機能を失う。

 格差社会というものがなぜ問題になるのか、ということもこの点にある。そりゃ格差はいつの時代だってあった。しかし「信用」が正常に機能していれば、そうした格差がもたらすストレスは、ある程度しのぐことができた。その機能がダメになっている、ということが格差の問題の根本にある。

 

 さらにないがしろにされがちなのは、「信用」は凡庸なるものが社会を構成するために必要だ、ということである。

 昨今のインターネットには、凡庸さを嫌悪する凡愚たちであふれ、信用というものを襤褸の如く捨てて顧みない。

 「マスコミは信用できない」という定番文句があるが、実はマスコミ以上に「信用」が嫌いなのだ。というか、「信用」ということが、根本的にできなくなっているのだろう。

 そうしたネット界隈で大きな顔をしたい人は、「本来ならもっと賞賛されてしかるべき自分」と「凡庸な人間」が、「信用」 によって同列にされてしまうことが我慢ならないようだ。

 故に凡庸さを嫌悪する凡愚たちは、「信用」を嫌悪してはばからない。

 

 最後に、「がんばったものが酬われない税制」云々という人には、「がんばるとかがんばらないとか、本来税金に関係ないから」と言っておくことにしよう。

 

 

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