オリンピックの話

 知り合い(正確には知り合いの知り合いだが)に元オリンピック選手がいる。

 といってもまったく無名で、おそらく関係者でもなければ十人が十人とも知らないだろう。

 出場したのはソウルオリンピックだから、もうずいぶん前のことだ。

 彼はとある工場で働きながら、オリンピックへの切符を手に入れた。といっても、メダルを取ろうと思ったら上位選手全員に一服もるとかしないとかなわない、という程度の微妙な位置にあった。

 しかし、それより問題は工場の方だった。

 今なら「ブラック」と呼ばれるであろうその会社は、とにかく休暇をくれなかった。「オリンピックに出場したいので」といって、有給休暇に何日か足して休むことになったが、上司からのいやみは半端じゃなかった。

 だが、それよりもきつかったのは同僚からの嫉妬だった。急にみんな態度がよそよそしくなったのだ。

 「どうせメダルなんか取れないくせに」という陰口を背に、彼はソウルへ向かった。

 選手の渡航費と滞在費は出してもらえるが、コーチの分はこちらで用意しなくてはならなかった。「ソウルじゃなくてヨーロッパのどこかだったら断念してたかも知れない」と彼は言う。貯金はすっからかんになった。

 

 予定通り(?)予選落ちをして、閉会式の前に帰国した。

 出社すると、朝礼で社長がオリンピック出場のことをとりあげて、記念品として腕時計をくれた。

 正直、いくらか報われた、と思った。

 がしかし、その月の給料から、時計の代金がしっかりマイナスされていたのだった。

 

 彼は工場をやめて、今はとあるスーパーで働いている。

 職場では「元オリンピック選手」というのはないしょだそうだ。

 (個人が特定されかねないので、競技名は伏せさせてもらいました)

 

 

オリンピックと商業主義 (集英社新書)

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