ルイ15世のおなか
政治向きはポンパドゥール夫人に牛耳られ、国庫は7年戦争の敗北ですっからかんになった。(ルイ14世による破綻もあったが)
それなのになぜか在位中の国民の人気は高く、「愛しの王」とあだ名され、在位期間は半世紀を越えた。
彼が死んだとき、ヴォルテールは公爵宛の書簡で、忌々しげにこうしたためている。
「王は国民に対して勅令を出すべきであった。愚かな国民は自分を『愛しの王』などと愚かにも呼ぶべきではない、と」
ルイ15世の人気の秘密は、まずその見てくれにあった。王様としてはなかなかのハンサムだったのだ。
そして、病弱であることもまた民心に哀れの情を誘った。
在位期間とその助平ぶりからは意外に思えるが、消化器系の持病があり、少し食べ過ぎるとお腹が苦しくなって寝込んでしまうのだ。
「愛しの王」と呼ばれるようになったきっかけも、その持病にある。
一時期宮廷で専横を極めたシャトールー夫人とその一族を王宮から追放する際、肝心の王が腹痛を起こして倒れてしまったのだ。そのことを知った多くの国民が、国王の快癒を願って祈りを捧げた。当時、パリの辻々に人々が立って祈念している姿が見られたという。
さらに7年戦争の敗北があった。本来なら王がその責任を問われるところだが、外交向きはポンパドゥール夫人が握っていたことは周知のことだった。ポンパドゥール夫人はマリア・テレジアと手を結び、フランスとオーストリアはそれまでの敵対関係を脱して同盟を結んだ。これは「外交革命」とまで呼ばれた。
しかし、その同盟はフランスをプロシアとの戦争に引きずり込むものでしかなかった。オーストリアには継承戦争で奪われたシュレージェン地方を取り戻す、という強い動機があったが、フランスは「同盟国が闘うのだからいっしょに闘う」という程度のことだった。イギリスとのごたごたはあったが、まあ、手もなく勝てるだろうという甘い目算によるところが大きかった。
この「最初の世界大戦」に敗北したフランスは、「フランス史上最も不名誉」と形容されるパリ条約を結ばされ、多くの財産と植民地を失うこととなった。
ところが国民の反感は、プロシアの背後にいたイギリスや戦争につきあわせたオーストリアに向けられるところとなり、その反動から国王はいよいよ「愛しの王」となった。当時まだフランスには、他国を憎悪する「余裕」があった。
もちろん反発するものもないではなく、戦争中に暗殺未遂も起こっている。だがそのときルイ15世は、傷つきながらも「犯人をすぐ殺してはならない」と冷静に指示し、国民の人気はまたさらに上がったのだった。(犯人は後に八つ裂きの刑になったが)
死の間際に「我亡き後に洪水よきたれ」と言ったとされる。マルクスによって「資本主義の本質」とされたこの台詞、ポンパドゥール夫人が口にしたとも伝えられるが、要するに当時の貴族社会の流行語だったのだろう。
予言(?)通り「洪水」は来たり、フランス革命が起こる。
その数年前からの異常気象で本物の洪水も起こり、それによる飢饉が革命のきっかけだったとの説もある。が、これまでもっとひどい飢饉も何度かあった。結局は国庫がからっぽで、飢えた国民を救済する余裕が国になかった、というのが原因かと思われる。
英邁でも愚昧でもない凡庸なルイ16世は、断頭台の露と消えた。
それは本来、ルイ15世が受けるべき罰であっただろう。