たいへんよく書けていますが


新聞は「中和性」与える議論をしているか :日本経済新聞

 

 新聞週間か。ネットでは「マスゴミ」なる単語を振り回す、風呂敷のマントをつけてブロック塀の上から飛び降りるお子様のような人たちが眼につく。「リテラシー」というものは、まず自分がどの程度の人間なのか見極めることが肝要なのだが、ネットという匿名の空間ではおざなりにされがち、というか、そんなことをきちんとやっている行儀のいい人間はあまり相手にされないような状況だ。

 しまいには爆破予告と来た。これに萎縮してしまう側を非難する声もあるが、爆破とまで行かずとも何をやらかすかわからない連中が、仲間内で吹き上がっている様子を見れば、警戒するのもわからないではない。

 彼らは、守るものを持たない。

 アーレントが『全体主義の起原』でその大元とした、「モッブ」に近い人種に思える。

 あのラーメン屋で人を殺した後、逃げもせずラーメンを食べ続けていた男などに似たものを感じる。

 そして、そうした人間たちによってあべぴょん政権は支持され、2ちゃんねるはにぎわっている、というわけだ。

 

>「言論機関の任務は、極端なる議論に対して中和性を与え、大衆に健全なる輿論の存在を知らしむる点に存する。社会は現代の日本の言論機関にこれを期待することが出来るだろうか」

 

 日経はこの石橋湛山の語を引くからには、慰安婦問題について保守側からの「まとめ」を作るべきだろう。読売はまったくその気がないようだし。

 現在朝日のものだけが、瑕疵はあれども対外的に提示しうる唯一のものになっている。それでこの騒動と相成った。

 『極端なる議論に対して中和性を与え、大衆に健全なる輿論の存在を知らしむる』ことを考えるなら、日経も慰安婦問題についての「まとめ」を発表することが「中和性」を与えることになる。

 どんなに保守側に気を使った表現を駆使しても、矛先は日経へと向かうかもしれない。しかし、それを恐れるなら、このような社説など書かず、ただの経済新聞として会社の提灯記事だけ載せていればいいのだ。

 

 

石橋湛山評論集 (岩波文庫 青 168-1)

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