「労働」と「仕事」
>仕事の生産性を上げる労働時間制度の見直しでは、働く時間の長さでなく成果で賃金を支払う「ホワイトカラー・エグゼンプション」への関心が高い。
「仕事」の生産性を上げる「労働」時間、とこのように労働と仕事は普段からごっちゃにして語られている。まあ、これは別に日経に限ったことではなく日本中がそうなっているわけだが。
欧米でもよく混乱した使い方がされて入るが、截然とはしていないまでも、日本のようにごちゃごちゃにはなっていない。
労働laborと仕事workは語源を異にする別系統の言葉だ。独のherstellungとarbeiten、仏のtravailleとouvréesなどなど。
- 作者: ハンナアレント,Hannah Arendt,志水速雄
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1994/10
- メディア: 文庫
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「労働」とはおおむね肉体的で単純なものであるが、それは生活と直接に結びつき、なくなれば個々人の命にかかわるものである。しかし、だいたいが不自由だ。
「仕事」は個人の技量によって作品を制作するが、生活よりも快楽に結びつくことが多く、なくなっても直接命に関わるようなことはない。そして、そこそこに自由である。
アーレントによる分類は、大雑把にこのような感じだと思う。こうして分けられると、改めて成る程と思わされる。
日本における労働者は、ただ単純な肉体労働をするだけでなく、そこに緻密な思い入れをこめる「仕事」が求められた。所謂職人などがいい例だろう。そのため、自分たちの「労働力」が、マルクスの言うような個人的差異の少ないものではないとの自負からか、労働運動に対して距離を置くことが多かった。
そして「仕事」を行うサラリーマン(「仕事人」では別なものになってしまうので、便宜的にこう呼ぶことにする)は、自分たちの「仕事」を労働のごとく扱われることに慣れることによって「一人前」とされるようになった。
こうした「労働」と「仕事」のアマルガムは、日本に高度経済成長をもたらした。
経営者の都合によって、それを「労働」のように扱ったり、「仕事」のように扱ったりできたからだ。
青色LEDの中村氏が、仕事の報酬remunerationを求めたのに対し、会社側が労賃wageしか払おうとしなかった、というのがいい例だ。中村氏は会社から普通以上の見返りをもらっていたという話も耳にするが、多少金額がはっても労賃は労賃なのだ。
そしてまた、「労働」と「仕事」をごっちゃにしてごまかすための経営者にとってありがたいアドヴァイスが、本日の日経の社説で垂れ流されたわけである。ホワイカラーなんちゃらより、さらに輪をかけている。
かつての「ごまかし」で成功したのだから、もっとひどい「ごまかし」でなんとかしよう、としているのだ。どんなお人好しでも、さすがに気づくというもの……と思うのだが。