保守の得意技である「日常の感覚に訴える」という詐術


曽野綾子さん「移民を受け入れ、人種で分けて居住させるべき」産経新聞で主張

 

 曾野綾子がまたおかしなことを口走っているようだ。

 人種差別肯定云々はとうに他の人々が言い尽くしている。しかし、この文章のキモは以下の部分にある。

 

黒人は基本的に大家族主義だ。だから彼らは買ったマンションに、どんどん一族を呼び寄せた。白人やアジア人なら常識として夫婦と子供2人くらいが住むはずの一区画に、20~30人が住み出したのである。

 このような「実例」をひくことで誰に何を訴えようとしているのか。

 それは、全て「日常」というものを基準にして考える人に、「このようにして『日常』がゆるがされたら、理屈抜きに嫌でしょう?」と共感を求めているのである。

 このように、社会的な問題を「日常の感覚」に訴えるというのは、「保守」と呼ばれる人々が好んで使用する詐術である。

 現にコメント欄には、その詐術に惑わされた人の発言も見受けられる。

 

 やれやれ、と思いつつネットを見るうち、以下のエントリーに行き当たってマジで吹きだしてしまった。


日本人の55%は我が子が誘拐されても犯罪組織に身代金を渡すくらいなら毅然として我が子が殺される方を選ぶらしい - 誰かの妄想・はてな版

 

 そう、これは本来なら「保守」の人々が口にしているはずの理屈である。あべぴょんが総理でなければ、いや、もし現在も民主党政権であったなら、ネットはこのような言説で埋まっていたことだろう。

 それを「どーでもいい話」として提示され、はてブのコメントはさながら魚市場のハエ取り紙のようだ。

はてなブックマーク - 日本人の55%は我が子が誘拐されても犯罪組織に身代金を渡すくらいなら毅然として我が子が殺される方を選ぶらしい - 誰かの妄想・はてな版

 自分のたれた糞で、おつりが跳ね返ってきているのも気づかないようで、なかなか面白い見物になっている。

 

 エントリーの方のコメント欄に、カテリーナ・スフォルツァのことをよく知りもせずに書いているのがいるが、そんなのよりももっとぴったりくる実例がある。

 スターリンは自分の息子がドイツの捕虜になったとき、捕虜の交換はもちろん身代金の支払いも一蹴し、「オレにそんな名前の息子はいない」とうそぶいた。

 そして、スターリンの息子は収容所で射殺された。

 ナチスとの闘いに屈しなかったスターリンを、保守の方々は賞賛するべきですな。

 

スターリン - 「非道の独裁者」の実像 (中公新書)

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