自分の口臭を認めようとしない自民党信者たち
>作戦を実行するに私からはいくつかのご要望がございます。
>逮捕後の監禁は最長で2年までとし、その後は自由な人生を送らせてください。心神喪失による無罪。
>新しい名前( )、本籍、運転免許証等の生活に必要な書類
>美容整形による一般社会への擬態
>金銭的支援5億円
>これらを確約して頂ければと考えております。
>ご決断頂ければいつでも作戦を実行致します。
>日本国と世界平和のために、何卒よろしくお願い致します。
>想像を絶する激務の中大変恐縮ではございますが、安倍晋三様にご相談頂けることを切に願っております。
幼児性あふれる文章である。
自らの行動を「作戦」と呼ぶところ、「5億円」という金額などにそれがよく表されている。
そうした幼児性と、「安倍晋三様」という呼び名は、非常によく共鳴していることがわかる。
「二度とこういうことが起こらないよう、厚労省を中心に関係省庁が協力して、再発防止策を早急に検討して対応したい」と語った。
こういうことを「二度と」起こらないようにする、というのはどういうことか。
おそらく、多くの人がうっすらと感ずいていながら、それとは別のことを大声でわめきたててごまかすだろう。
「施設の警備をもっと厳重にすべきだ!!」
「犯人をさっさと死刑にしろ!!」
「施設自体なくしてしまえ!!」
などなど。
ふとした拍子に自分の口臭を嗅いだ時、それを認めたくない気持ちがわくものだ。
いい大人なら歯医者に相談するが、幼稚な連中は「臭いとか言う方がおかしい」とわめいてごまかす。
それが、現代の日本の自民党を支持する「気分」を形成している。
相模原の事件が起きる数日前から、私はその悪臭に対して敏感だったように思う。
いや、敏感というより悪臭に耐えられなくなり、「なんでみんなこの臭いに平気なんだ」と不思議になってきた、というのが正しいだろう。
たとえば、ミュンヘンの乱射事件について、以下のようなブコメをしている。
この犯人と同じ病を、今の日本人の多くが抱えているように思う。薄く、広く、無自覚に。その病を「改憲」という言葉にすり替えている。
さらに、当ブログでも類似したことを書いている。
富裕層からの貧困層に対する「無関心」が、富裕層を過剰に正当化するために、社会を構成する「正論」として流通してしまうということだ。
それによって人命が軽視される風潮が生まれ、それはやがて社会をとてつもなく不安定にする。
そこから生じるテロリズム(恐怖主義)は、社会を破壊するとともに右傾化させ、対応を誤れば戦争に親和的な国家を形成するようになる。
サル(勝者)はカニ(敗者)について、何ら関心を持たない。
カニが死んでもサルはさっさと忘れるだけだ。
それが「正義」として広められ、社会に多数派を形成する人々が「サルの論理」を身につけた時、
「格差の放置」は社会に過剰なストレスをもたらす。
それは、下々のものをどんなに都合よく「教育」しても消えないものだ。
「教育」とは、「格差はいつの時代にもある」とか「世界を見渡せばもっと苦しいひとたちはたくさんいる」とか、つまりは「ものは考えよう」というごまかしの「精神論」である。
ただ、そのストレスの発露を別な方向へ枉げることはできる。
具体的な問題を語るものを「サヨク」と罵倒することや、社会的な弱者や特定の民族に憎悪を向けたりすることである。
しかしそれらは一時的に「発散」することはあっても、ストレス自体は消えることがないので、延々と続けることになる。
そうするうちに、ストレスを消すことよりも「発散」の快感に酔うようになり、その快感を与えてくれるストレスを逆に必要とするようになってしまう。
この「ストレス」は致死的な毒を持っている。
それは、人命について軽んじるようになる、という効果をもたらす。
相模原の犯人は、微塵の躊躇もなくやすやすとこの「作戦」をやってのけただろう。
「一人殺せば殺人者だが、一万人殺せば英雄だ」というのは人口に膾炙したセリフ(チャップリンのものとして知られるが、類似したものはもっと以前からあるようだ)だが、この犯人は自分を「英雄」に比しているに違いない。
そして、今警察の一室において、安倍晋三様からの密使が自分を解放してくれるのを、反省したフリをしつつ待ちわびていることだろう。
現在の自民党を肯定し、それを支持するということは、そのストレスをも認めるということである。
憲法を軽んじ、さらに人権を軽んじる改正案を出す政党を支持する、というのはそういうことだ。
その背景には、「国のために命を捨てる」ということが求められるような、人命軽視を美徳とすら考える思想がある。
あの犯人は、自民党信者たちの発する毒ガスめいた口臭をまとっている。
そして、これからもまだしばらくは、社会からそうした「悪臭」が消え去ることはないのだろう。