その亀裂を作ったのは誰か
ある日、シカゴの証券会社に血相を変えた男が飛び込んできた。
著名な経済学者のミルトン・フリードマンだった。
フリードマンは株の空売りを申し込んだ。事態は一刻を争う、せっかくの大儲けのチャンスをフイにしてしまうぞ、と。
証券会社はその申し出をやんわりと断った。
「お客様、それは紳士のなさることではございません」
フリードマンは怒り狂って吠えたてた。
「どうやって儲けようが俺の自由だろ! アメリカは自由の国ではないのか!」
フリードマンは死んだ。しかし、その思想は今も生きている。
そして、顧客に紳士たれと求める証券会社などは、とうに絶滅している。
アメリカの「亀裂」のことなら、もう何十年も前から言われている。
近年はオバマケアなどもあったが、それでも亀裂をふさぐのには足らなかった。
アメリカにおける競争のあり方、勝者が全てを得、敗者を顧みない「自由」によって、少数の勝者と数多の敗者が生み出された。
自由を絶対と信じる人々は、そのことを「当然だ」と主張した。
人はどのような時に敗北を受け容れられるだろう?
フィフティ・フィフティの立場で競争して、互いに全力を尽くしたなら、そのようなことはあるかもしれない。
しかし実社会において、そのような美しいバトル・フィールドが現れることは滅多にない。おおむねは競技が始まったことすら知らされず、気付いた時には「敗者」のレッテルが背中に貼られているのだ。
そのような競技を正当とする社会に、怒りを持たぬものがいるだろうか。ごく少数の勝者を除いて。
そして敗者とレッテルされたものたちは、ただただ勝利を欲望するようになる。
本当は競技のルールがおかしいと考えるべきだが、彼らは勝利することしか考えないようになる。どんな手を使ってでも。
そうした、敗者が生み出されることを当然と考える思想の成果として、トランプ大統領は誕生した。
アメリカの「自由」によって排出された、大いなる糞袋である。
そしてその「自由」は、日経さんも同様のものを奉じてやまない。
だからこそ、小物の糞袋である現政権を「信じて」いるのだろう。
日本でノーベル賞に一番近いとされていた経済学者、宇沢弘文はフリードマン死すの報を受け取った時、妻に向けてこう言った。
「フリードマンが死んでよかったね」
すぐに、人の死を寿ぐのはあまりよろしいことではないのではないか、という考えが浮かんだ。
だが、ややあってやはりまたこう言ったのだった。
「やっぱりフリードマンが死んでよかったね」
顔には、ついつい笑みが浮かんでいたという。