対称的であるようでいて非対称であることについての仮説

 塩と砂糖は調味料としてよく対になって扱われる。

 両方とも料理の味を決定づけるものであり、白い結晶状の粉であり、それゆえよく間違われてしまう。

 しかし実体としては、化学的にまったくの別物であり、互いの味付けに陰影を与えることはできても、相補的とは言い難い。砂糖と塩を間違えて入れると、後からどんなに正しく入れ足しても、料理の味は致命的となる。

 なんだか右翼と左翼みたいだが、ここで話したいのはそういうことではない。

 通常同じカテゴリーにあるように言われながら、実はまったく別な組成を持つものが、この世界にはまだまだ多くあるように思うのだ。

 

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 さて、デフレ懸念が薄らいだというEUについて、日経さんが少々みっともない社説を書いている。

 だが、ECBについてのあれこれは、ここでは置いておこう。

 

マイナス金利量的緩和の限界を横目に物価低迷と格闘する欧州中銀の立場は日本銀行と酷似する。

 

 ここでの「物価低迷」とは「デフレ」と了解していいだろう。

 少し前まで、通貨の番人である中央銀行が主要な敵は、貨幣の価値を押し下げるインフレであるとされていた。デフレについては、あまり懸念されてこなかった。

 では、インフレとデフレ、よく対照として語られる二つの現象は、シャムの双生児のように背中合わせの存在なのだろうか。

 それらはともに経済用語から生まれた状況認識であり、経済学(主にマクロの方だね)では、通貨の流通量の過剰と過少によって引き起こされる、相関性の高いものだとされていた。

 それゆえ、デフレ状況下にあっても通貨の流通量を人為的に増加させてやれば、さっさとインフレになると考えられていた。

 だがどうだろう、さんざっぱら緩和してもデフレの泥沼を脱せない現状について、リフレを指差してあざ笑っていればすむという次元ではなくなっているように思われるのだが。

 

 インフレ「期待」expectationsという言葉がある。昨今では「インフレ予想」という訳語に入れ替わりつつあり、「期待」などというのは間違いという人もいるが、英文のツイートでも「期待」の文脈で使用しているのを見かけるので、あちらでも「期待」している人はいるのだろう。

 「予想」という理性的なものに対し、「期待」は感情的に思われるが、経済という大状況を動かすのはむしろ「期待」のような心象の方ではないだろうか。

 しかし、インフレを「期待」するという心象はどのようなものだろう?

 デフレの中であがいたなら、そのような心象が自然と形成されるものでもないだろう。大株主になったり大地主になったり、巨大な資産を所有するならそうしたこともあるだろうが。

 

 多くの場合、インフレは恐怖の対象であり、その根底にある心象としてはむしろ“不安”である。

 ではデフレの方はどうか。こちらの方はエゴからくる利己主義の蔓延があり、その根底にあるのは“欲望”である。

 その表層に浮かび上がる経済の状況のみを見るなら、ただの通貨の流通の繁疎によると思われる。しかし、その下には表層をいじっただけでは動かしがたいものがあるのではないか。

 そして、その根底のあり方は「非対称」なのである。

 “不安”はある程度金銭によって解消されるが、エゴの元となる“欲望”はかえってそこから刺激を受けはしても、変質することはない。

 なので、インフレ・デフレのように対称として扱っていると、相互における関係性を見失ってしまうのだ。

 経済こそが全てを決定するという経済万能主義的な思想から脱し、社会的な根底部分を変革することが必要なのではないだろうか。

 つまり、デフレを脱するなら、その底にある“欲望”としてのエゴや利己主義を否定していくことが求められるわけである。

 

 しかし、現況としては、デフレの深化によって社会“不安”が煽られ、インフレが「期待」されつつも、金融緩和等々による莫大な金銭の流入によって、エゴや利己主義としての“欲望”は肥大するばかりなのだ。

 とはいえ、トランプというピラニア(熱帯魚搬送用の水槽にピラニアを入れておくと、他の魚が緊張して食われる以上に生存率が上がるとの比喩。山口昌男がよく口にしていた)の登場によって、“不安”が煽られてインフレになるかもしれんけどね。だがそれは、社会に大きな不幸しかもたらさないだろう。

 

ピラニア・ナッテリー(ML)

ピラニア・ナッテリー(ML)