国会論戦でんでん

 昔、一万田尚登という名の大蔵大臣がいた。戸籍上は「一萬田」と旧字だったらしいが、通常は一万田で通っていた。

 元日銀総裁であり、鳩山内閣(一郎の方)と岸内閣で大臣を務めた。岸内閣の時には、現政権と逆の「デフレ政策」を指揮している。

 この人は、ずいぶん言い間違いの多い人だった。

 例えば「座談会」を必ず「だざんかい」と言う。記者から注意されても意に介さず、平気で何度も間違えた。学歴は一応東京帝国大学卒であり、いわゆるエリートの部類に入る。この間違いは、いわばオヤジギャクの原型のようなものか。

 

 さて、先日の国会論戦において、一番盛り上がる場面の一番大事なセリフで間違えるという、故蜷川幸雄であれば灰皿投げて主役を交代させるようなヘマがあった。

 我らが総理大臣あべぴょんが、「云々」を「でんでん」と読んだのである。

 うっかり読み間違えたのではなく、かなりの確信を持ってはっきりと力一杯間違えていた。

 間違いは誰にでもあるものだが、この間違いには一万田蔵相の場合と違った、ある種の「きもちわるさ」がある。

 

 「云々」を「でんでん」と読むのはどのような場合があるのか。

 まず「云々」を人前で読む機会がない。さらには文章で「云々」という語を見ても、それが「うんぬん」につながるきっかけを喪失している場合がある。しかしフーテンの寅さんならともかく、位人臣を極めた総理大臣がそのような境遇で成長したとは考えにくい。麻生の「未曾有」とはまたレベルが違う。

 ならば、それまでも間違うことがあったが、その間違いを指摘されることがあっても受け入れない、といういじけた頑迷さが原因だ、と推察される。

 間違いの指摘について、一万田のように笑って応じるのではなく、逆ギレして騒ぐようであれば、指摘する側もバカバカしくなって何も言わなくなるだろう。

 すると、当の御本尊様は、御自分の「無謬性」を無根拠に信ずるようになってしまう。

 

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野党批判と自画自賛はそろそろやめて、政権の次の一手をもっと雄弁に語ってほしい。 

 

  日経さんの苦言ももっともなことである。

  バカな読み間違いに触れないのは当然の良識と言えるが、「でんでん」が「自画自賛」と結びついていることは、一事が万事でこの調子なのだと考えたほうがいい。

 幼稚な傲慢さは、ここぞという場面でにおいて、「でんでん」という形で覿面に露わになったということだ。

 まあ、総理の「無謬性」を信じてやまない人たちにとっては、「この程度の間違いで騒ぐ方がおかしい」のだろうが。

 

 

大蔵省の便所―ずいひつ (1970年)

大蔵省の便所―ずいひつ (1970年)