走らないウサギを追う必要はない
日経さんは「おかしい」とは言いつつも、何が「おかしい」のか具体的に示さないでいる。なので、二羽のウサギがどこにいるのか、さっぱり見えてこない。
問題は日経さんのいうウサギなどにはないことは明白だが、教育という制度の持つ問題について、どのような点を改めるべきなのか、ちょっと具体的に書いてみよう。
授業で先生が生徒に答えさせる。
「G君」
「はい、△●です」
「違います、ではH君」
「○●です」
「よくできました」
今も日本国中で同じ光景が繰り返されていると思うが、まずこの習慣を改めた方が良い。
教師は最初にG君が間違えた時点で、正解を教えるべきである。常に正解を語るのは教師だ、という立ち位置を揺るがせてはならない。
この時H君は満足を得るかもしれないが、G君はそれ以上に不快を覚えることだろう。
それに加えて、G君が間違えた際、教室に笑い声が起きたとする。
G君の授業への不快感はいや増すことだろう。
その時教師は笑い声を厳しく静止し、他人の振る舞いに対していたずらに笑うことをやめさせなくてはならない。
教室で笑っていいのは、教師がそう仕向けた時だけにする。
まずはこんなものか。馬鹿馬鹿しいくらいに簡単なことのように思えるだろうが、これは重要なことである。すでに気づいて実践している人もいるかもしれないが、ほとんどは昔のままだろう。子供が学校の勉強について「わからない」「つまらない」以前に「不快」を感じることを、このようにすることでかなり予防できるはずだ。
こうした部分から、教室に根強く残る「悪習」について、教師自身が自覚的になることが求められるべきである。
以上のようなことがおろそかなままなら、いかに愛国心やら道徳心やらを授業に注入したとて、まったくの無駄だと言える。
日経さんはなるたけ「中立」であるべく「配慮」しながら書いてるせいで、何か色々言ってるようで結局何も言ってない社説になっている。
そんな風だから、
こんなゆるゆるの社説しか書けないのだ。
なんなら、東芝の株価が今も200円を越えていることについて、
普通の人にも分かる言葉で説明してほしい。
もんだがね。