裸でも平気な王様たち

 その昔、ヨーロッパの王侯・貴族は国境を越えて婚姻を重ね、幾重にも血縁を結んでいた。

 彼らにとって、自国の民よりもむしろ他国の貴族の方が慕わしい存在であった。

 旧称ECが出来上がりつつあった際にも、国境をやすやすと超える貴族の復権を懸念する声があった。実際、ECの議長をハプスブルク家の子孫が務めていたこともある。

 こうしたアンシャン・レジームとしてのグローバリズムを乗り越えるため、政治的実験として現EUは成立したのだと言える。

 

 現代における新たな経済的グローバリズムは、政治的なそれを嫌悪する。なぜなら、国境を越えての商売は、国境を越えられないものたちを搾取することで、旨味が何倍にもなるからだ。

 経済的グローバリズムも、アンシャン・レジームとしてのグローバリズムも、「上」と「下」の間に越えがたい壁をせっせと作りあげるという共通点がある。

 そして、その壁はおおよそ国境よりも高く丈夫である。

 冷戦を知らない子供たちが壮年となり、経済的グローバリズムは新たな「貴族」を形成しつつある。

 その「貴族」に対抗する戦略として、下々の民らがとった方法がポピュリズムである。よりにもよって。

 

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 ポピュリズムが愚かしい選択であることは論を俟たない。

 だが、その愚かさの淵源は経済的グローバリズムが生み出した、乗り越えがたい「格差」にあることを知るべきだろう。

 「格差」を経済学的に論難することは難しい。現に、一部を除き、経済学者どもはこぞって格差を肯定している。

 しかし、社会的に見れば、「格差」は明らかに多くの人々を「愚か」にする。

 いくら社説で保護主義を難じ、大恐慌の歴史を鑑みて警告を鳴らそうとも、そうした視点がなければ自分のたれた屁に文句を言ってるのと変わらない。

 

 古来、大衆の支持を取り付け名君と呼ばれた王は、洋の東西を問わず、おおむね貴族政治の破壊者としてあらわれた。

 マキャベリ君主論で待望しているのも、そうした王である。

 ポピュリズムによって人々が支持するのも、そのようなタイプの「王」に対してだ。

 祭り上げられた王様は、確かに裸だ。

 しかし、民衆は王様が裸でも平気だし、むしろ裸であることを喜んでいる。

 そして、そんな愚かな民衆を育て上げたのが、「格差」と呼ばれる栄養なのだ。

 「格差」とは、新自由主義を苗床とし、日経さんがせっせと水や肥料をやってそだてた、致死性の甘い毒をたっぷり含む黄金のリンゴなのである。

 

 

裸の王様

裸の王様