未来を語る者は反日である
「未来を語るものは反動だ」というのはマルクスのセリフだ。
基本的にマルクスは未来だの理想だの語る者を嫌っていた。アジテーションで相手を罵倒するレトリックとして口にすることはあっても、自らの思想にそれらの居場所を造ることを良しとはしなかった。
さてその未来、日本における経済の未来だが、アベノミクスであるところの異次元緩和によって、語ることを封じられている。
緩和の出口どころか、ハルヒコの「後任」すら考えることをはばかられる、それが日本の現状である。
当ブログで幾度か書いているように、日銀による国債引受がなぜ禁じ手かといえば、それがハイパーインフレを招くからでも、モラルハザードをもたらすからでもなく、「出口」がないからだ。
出口がないということは、未来がないということでもある。
未来とは、人間が思い描きうる将来のことで、それを失うことは、未来を基準にして自らの行動を決定することをやめるということでもある。
ここから先、やってくるのが地獄か天国か知らないが、とにかく突き進むしかないのだ。うかつに未来(出口)など探せば、たちまちバランスを失ってずっこけてしまう。
ゆえにアベノミクスを信奉するリフレ「派」のみなさんは、アベノミクスに対して「未来」を語ることをしない。
日本の経済に関する思考から「未来」を奪い、未来を基準として行動する「理性」を奪い、ただひたすら突進するものにとって、なすべきはその先導を崇め奉ることだろう。
それゆえ、リフレ「派」の方々はあべぴょんを讃仰してやまない。
あべぴょんの瑕疵となるものは、反知性的な言動をなしてでも、覆い隠そうとする。
それは、アベノミクスの「出口」という未来を語ることもまた同様であり、未来を語ることは反政権とされ、それはすなわち「反日」である、となされるわけである。
どんな英才だろうと、賭場で大枚賭ければ理性的ではいられなくなる。
それが国をあげてなされているのが、今の日本の状況なのである。
日経さんはあべぴょんを「信じている」が、リフレについては懐疑的である。
だが、少しでも口を挟もうとすれば、たちまち反日とされてしまうだろう。
それと似たようなことが起きたのが戦前であり、起こしたのが高橋是清なのである。