なぜオタクは「保守」を好むのか
例の「談話」というやつが発表されて、ふと思ったことがある。
あべぴょんが米議会で演説したときにも感じたことだ。
「あなたがなにを話そうと、だれも聞きはしません」と院長はきっぱり言いました。「人々が講演のほんとうの内容に興味を持つことはめったにない。彼らはただ、あなたの口調や身振りや表情から、あなたが正直者であるか否かを探りたがるだけです」 (カート・ヴォネガット『ヴォネガット、大いに語る』飛田茂雄訳より)
演説というものは、その内容よりもそれを語る人間の「中身」があらわになる。
あべぴょんの場合、30秒もしゃべるとたちまち「幼稚さ」があらわれてくる。
私が「安倍晋三」と書かずに「あべぴょん」と書くのは、その「幼稚さ」に非常にしっくり来るからだ。おまけにこの呼称は自民党公認である。
ではなぜ、その「幼稚さ」を抱えた人間が支持されてしまうのか。
それは「保守」というものが「幼稚さを許す」かのようにふるまうからだ。
その「許すというふるまい」が、あべぴょんという幼稚な男を総理にする、ということに表されている。
あべぴょんと同じく「幼稚さ」を抱えた人間は、「保守」によって自らの「幼稚さ」が許されるかのように錯覚し、同じように幼稚なあべぴょんを支持してしまうのだ。
「幼稚さ」とは、極端に単純な価値観である。
具体的には、「かっこいい」と「かわいい」の二つだ。
それ以外の社会的価値観を排除するために、「幼稚さ」を抱えるものたちは成長を拒絶する。
成長を拒絶したとき、人は「オタク」と呼ばれるようになる。いや、そう呼ばれるようにふるまう。
成長を拒絶するためには、周囲の成長を促すもの、すなわち「両親」「教師」「社会」は敵となる。
それらはネットの中で、それぞれ「弱者or老害」「日教組or共産党」「サヨクor在日」の語があてられ、オタクたちは恒常的にそれらを罵倒し排除しようとする。
そうした行為はもっともらしい理由づけがなされ、社会に対する正当な行為であるかのように語られる。
このようにして、
「成長の拒絶」=正義
という公式が成立され、彼らを満足させるものとなる。
そして成長を拒絶するものは、過去を過剰に愛することで「幼稚さ」に寛容となる「保守」に、その救いを見出すのだろう。
自らの内面を切断し、成長を拒絶する部分を客観視するなら、「オタク」のままでいても大人になることは可能だ。
いや、むしろ高度資本主義社会においては、そうした大人の方が生きやすくあるだろう。
しかしその場合、自民党というものに救いを見出すことは、もはや不可能になるはずなのだが。