「裁量労働」という名の詐欺

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 裁量労働に関する国会のドタバタについて、「その調査は裁量労働的にどうなの?」というツッコミが浮かばないでもないが、当を得た批判が多くなされているので、ここで屋上屋を架することはやめておくことにする。

 また、日経さんお得意の「サルの論理」についても、言説への批判はまた次の機会に譲る。

 

 この問題は「裁量労働」など存在しない、ということにある、と私は考えている。

 裁量労働とは「労働」ではなく、本来「仕事」であるべきである。

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 「労働」とはおおむね肉体的で単純なものであるが、それは生活と直接に結びつき、なくなれば個々人の命にかかわるものである。しかし、だいたいが不自由だ。

 「仕事」は個人の技量によって作品を制作するが、生活よりも快楽に結びつくことが多く、なくなっても直接命に関わるようなことはない。そして、そこそこに自由である。

 

 一般に使用される語法として「仕事に行く」とは言っても、「労働に行く」とは言わない。「肉体労働」という言葉はあるが、「肉体仕事」といのはない。「労働者」という呼称はあるが「仕事者」とは呼ばない。などなど。

 仕事と労働は無意識に別物として語られはするが、それはまた無意識であるがゆえに、時に雇用者側に都合よく錯誤して語られる。

 その錯誤は、この「裁量労働」という言葉にもまた同様に用いられている。

 労働は元々「裁量」などできない。

 裁量できるのは「仕事」の方である。

 「裁量」は労働を仕事であるかのように錯覚する、もしくは錯覚させたい、さらには錯覚したい、というライトモチーフによって語られる。

 かくして、労働を「仕事」であるかのように錯誤させ、労働者を過剰に搾取するためのツールとして、「裁量労働」という詐欺的呼称が使用されるのだ。

 

 こうした詐術に社会が自覚的にならない限り、もし今回この法案が挫折したとしても、繰り返し同様の詐欺が行われるだろう。

 

 

詐欺の帝王

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