上野千鶴子については以前から気に食わなかったわけだが

https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html

 

 上野千鶴子が東大の新入生に向けた「祝辞」が評判になっている。

 大したことを述べているわけではない。内容に問題があるわけでもない。レベルとしては、そこらのブログのエントリーと大して変わらない。

 では、なぜ、騒ぎになってしまうのか。

 それは、「東大」の新入生に向けた祝辞として、それがなされているからだ。

 この構図、どこかで見たことがある。

 

 天皇が万余の民草を前にして「お言葉」を述べる。

 大した内容ではなくとも、そこに民主主義や現行憲法への敬意が含まれていた場合、けっこうな「評判」となる。

 ちょっとした言動や行動の端々に、遠回しな現政権への嫌悪が窺われたなら、それもまた「評判」となる。

 だが、「天皇制」というものそのものは、民主主義の敵であり、現行憲法でその行動を抑制された存在であり、またそのシステムは現政権の寄って立つところである。

 しかし、天皇個人が「天皇制」に対して身をよじるかのような仕草をしてみせると、普段「天皇制」に懐疑的な人間までが天皇を寿ぎ、結果的に天皇制を補強してしまうようになる。

 

 上野千鶴子の祝辞はどうだろう。

 それがどこぞの雑誌に書きつけられたエッセイなら、何の問題もない。

 だが、「東大」での祝辞とあれば、話は別だ。

 祝辞の中で上野は、社会に今も根強く残る差別について述べ、「東大」の新入生たちに問題意識を持つように促している。

 新入生たちは戸惑ったことだろう。なぜなら、上野の語る「差別」の根源の一つは「東大」を頂点としたヒエラルキーにあり、新入生たちはそのヒエラルキーを受け入れ、勝ち抜くことでその場にいるからだ。

 とはいえ、新入生たちがそれをどう受け止めるか、についてはどうでもいい。

 それよりも、この祝辞が評判になることによって、逆説的に「東大」を頂点としたヒエラルキーが強固さを増してしまうこと、それが問題なのだ。

 上野が「東大」の根源部分を否定するかのような祝辞を述べ、それが世間で評判を得ることは、上野の祝辞の内容と真逆の効果をもたらし、むしろ「差別」を助長させてしまうだろう。

 上野はそのことについて、まったく気づいていないのだろうか。

 もし気づいていないなら、社会学者としての資質に大きく疑問符をつけたいところである。

 

 

天皇と東大 I 大日本帝国の誕生 (文春文庫)

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天皇と東大 大日本帝国の生と死 上

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天皇と東大 大日本帝国の生と死 下

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天皇と東大 III 特攻と玉砕 (文春文庫)

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天皇と東大 II 激突する右翼と左翼 (文春文庫)

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 ついでなので述べておくと、上野千鶴子は「ニューライト」であり、その系譜は高群逸枝に連なるものである。

 私は彼女の言論に9割まで賛同しつつ、常に残りの1割に裏切られてきた感がある。