愛国心と秘密保護法と監視カメラ
愛国心という気恥ずかしい単語が臆面もなく口にされるようになったのは、いつの頃からだろう。
「愛国から幸福行き」の切符が馬鹿みたいに売れた頃ですら、それが具体性を持って語られたことはなかったと思う。
だいたいの感覚として、橋本政権の頃からではないか。人によってはもっと以前から、という人もいるだろう。「愛国心なら戦前に散々称揚されたではないか」と。
しかし、戦前口にされた愛国心と、現在の愛国心ではどこか違っているように思う。
戦前、日本という国はひとつの共同体であった。国民は「天皇の赤子」であり、ほぼ全員が互いをそのように認識していた。そして、そうした国の形、「国体」を愛することが、ストレートな愛国心となって現れていた。
その甘やかな幻想は、敗戦によって打ち破られた。
そこですぐ日本人がバラバラになったわけではない。人々は打ち破られた幻想を、リサイクルショップで買った扇風機を修理するようにして、だましだまし使用することにした。
しかし、一度破壊されたものは、元には戻らない。共同体幻想(『共同幻想』ではなく)は、うち寄せる波が少しづつ崖を削るように、バラバラの砂粒になっていった。
それを「西欧的な個人主義の蔓延」となじる保守思想家もいたが、実体は幻想が破れ、夢から覚めたもののどうすればいいのかわからず、いきなり日向に出された地虫の群れのように右往左往しているだけだった。
そこに個人「主義」と呼べるものはなく、いやそれ以前に個「人」ですらなく、ただの「個」があてどもなくうろうろするばかりだった。
その無方向性を、一時はポストモダン思想が回収するかに見えたが、バブルの崩壊とともにそれもついえた。
バラバラになった「個」は、個人として確立しているわけでもなければ、個人主義をもって生きる基盤としているわけでもないので、必然的に不安を抱えることになった。
不安を抱えるとどうなるか。
目の前にあるものがすべて無価値になる。本来は価値があろうものを、切り捨てるようになる。
本来、「個」としてバラバラになったからには、それぞれの個性によって立ち、新たな基準により共同体を形成しなくてはならない。その試みは何度も持たれたが、すべて失敗に終った。しまいにはカルト宗教が跋扈する有様となった。
そこで、異様なまでに「国」を信ずる人たちが現れた。
戦前は共同体幻想の延長線上に愛国心があったが、現在の愛国心はバラバの「個」が抱える不安の総合としてそれはある。
戦前の愛国者は、共同体の成員として互いを認めることをしたが、現代において愛国心を口にするものは、眼前にある一人の人間を無価値とする。自分以外の人間に価値を認めるのは、自分と同じく眼前のものを無価値とし、愛国心を口にするときだけである。
右翼の鈴木邦夫が現代の愛国心に違和感を覚え、「電車の中で老人に席も譲らず大股開きでゴーマニズムを読みふける若者」というわかりやすいサンプルをあげていたが、それは眼前のものを無価値とし、国家のみを価値の基準とすることを「愛国心」と呼ぶ若者の姿なのだ。
だから、愛国心を口にするものは、国を異様なまでに信用する。
目の前にいる個々人を信用できないからだ。
それは監視カメラの増大をありがたがる心性にも通じる。
そして、秘密保護法の成立をことさらに祝福する。
以上、雑感として。
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