この際なので現状の日本における「無党派層」の意味を考えてみる

 まず、少し麻雀というゲームについて述べる。ルールを知らない人にもなるべく伝わるように書くので、しばしお付き合い願いたい。

 馴染みの薄い人でも、このゲームが本来4人で行うものであることはご存知だろう。分厚いタイルのような「牌」に模様の書かれたものを集めて点数を競うわけで、最初に配られた手(配牌)に、裏返しで2段に積まれた牌の列(牌山)から、一つづつ牌を順番に取って(ツモって)くる。集めた牌の揃い具合によって、点数が変わる。

 気づいてない人も多いのだが、このゲームには5人目のプレーヤー(面子)が存在する。その面子はゲームに全く参加しないし、勝ちもしなければ負けもしない。人間ですらもない。にもかかわらず、勝負に大きな影響を持っている。しかもそれは、神や運と名づけられる目に見えないものではなく、はっきりと目の前に存在するのだ。

 やったことのある人ならすぐわかるだろうが、麻雀というゲームは牌を最後の一枚まで取るということをしない。必ず中途で終了する。すると、ツモられなかった牌の「山」がけっこうな数で残る。

 その残りの「山」がその「5人目の面子」となるのだ。

 せっかく高い手が来ていても、必要な牌が「5人目の面子」に埋もれてしまっていた、などということはしばしば起こる。この「5人目」をどう味方につけるかが、麻雀というものの勝負のカギとなる。

 勘のいい人はすでにお気づきだろう。この「5人目」とは、選挙での「無党派層」にあたるものなのだ。

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 今回の都議会選挙での予想を上回る自民の惨敗ぶりについて、どこかで聞いたような分析ばかりが目につく。(日経さんの社説は「分析」すらしていない)

 「やっぱり公明党がカギだ」などという浅薄なことを言い垂れて事足れりとする論者も多い。

 だが今回、50%をやや上回る程度の投票率の選挙において明らかになったのは、「無党派層」というものの存在感がどんどん増してきている、ということだ。

 

 「腐敗した政治家は投票しない善良な市民によって支えられている」

 とフランクリンは言った。

 その通りだと考えるので、私は選挙というものには欠かさず参加している。

 しかし、世上「無党派」と仮の名が与えられた人たちは、そのときどきの気分によって参加したりしなかったりするし、生まれてこのかたまったく参加したことがなかったりもする。

 そうした人たちが多いと投票率が下がり、組織票をしっかり持つところが優位になる、と言われている。実際、組織力で勝る公明党は候補者の全員当選を果たした。

 だが、そんなことは前々からわかっていたことだ。それを踏まえた上で、多くの評論家やそれを気取る人たち、そしてマスコミ諸賢は、都民ファなんとかより自民がやや落ちることになりつつも「拮抗する」と予測し、その間に挟まれた他の諸党は二つの大岩にすり潰されるように消えてしまう、と考えていた。

 まさか自民党議席数が、公明党同数、共産党と数議席しか変わらないほどに落ちぶれるとは、まったく予想していなかった。(私もしなかった)

 創価学会がどれほどの組織力を持っているか知らないが、これほどドラスティックな結果をもたらすことはできないだろう。それができたなら、数年前に民主党に政権を渡したりしなかったはずだ。

 それはつまり、「無党派」というゲームに参加しない連中が、選挙に対して与える影響は思ったよりも巨大だということだ。

 そのことがはっきりと目に見える形で現れたのが、今回の都議会選挙だと私は思う。

 今回の都議選の投票率は51.28%だったという。彼らがどこに投票したのかということばかりが重要なこととして語られるが、それ以外の48.72%はいずれかに投票する動機を持ちつつもそれを埋もれさせた、ということもまた重要なのだ。創価学会組織力などよりもずっと。

 

 麻雀の「5人目の面子」のように、彼らはまったくものを考えないし、意思表示しないし、ゲームに参加すらしない。それゆえ勝つことも負けることもないが、ゲームの勝敗を大きく左右する。

 それが民主主義にとって、良いことなのか悪いことなのか、という判断はとりあえず置いておこう。

 必要なのは、神でも運でも空気でも流れでもなく、一般意志2.0とかいう与太話でもない、はっきりと存在する「彼ら」について、無視することなく「知る」ということである。

 

  なお、今回のことで公明党は自民に対する発言力を増すだろうが、すっかり極右政党となった公明党と、極右思想集団と化した創価学会では、大幅な方針転換などはまったく起こらないだろう。