忠犬の思惑

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 なんというか、相手が「中国」というだけで皆さん冷静な判断ができているようで、なんとも頼もしい限りである。

 中国が仲裁裁判所の判決を「紙くず」と読んだことは褒められたことではないが、以前アメリカが国連の決議を無視した時、このように非難がましいことを言っただろうか。そういうことを言うのは「左翼」と呼ばれたと思ったが。

 

 外交というものが信義よりも実利を優先することは、ことさら口にせずとも、「保守」の方々がよく喚き散らしていることである。

 例えば中国国民党が、一時期中共と対立しているというだけでソ連共産党と友好関係を結んだり、遡って日本からの侵攻に抵抗するためナチスと手を結んだことがあった、などというような具合である。

 しかし、そうした外交にもやはり例外はあって、戦後の日本はどんなに自らの利益が阻害されようと、アメリカに忠誠を尽くしていた。

 

 日本のアメリカへの「忠犬」ぶりは、時に異常にも思えるほどだった。御主人様がどんなに非道なことを行おうと、それが正しいとして振る舞うのだ。

 アメリカは時に、日本の忠誠を試すかのようなことまでしたが、それでも忠犬日本の姿勢は微動だにしなかった。

 日本の「保守」はそのことについて、「戦争に負けたから」「長い目で見ればその方がトクだから」など、バカにはわかるが利口にはわからないような理由を述べ立てた。

 

 その姿勢はまるで、「強者の言うことに盲目的に従うことこそが正しい」と身を持って示しているように見えた。

 強者の理論に過剰に服従することで、得られるものは何か。

 まず一つとして、戦前の軍部がらみの滅茶苦茶な「外交」を正当化できる、ということがある。

 自分たちが強者として行った数々の理不尽な行いを、同様に理不尽な命令に従って見せることで正しいものにするのである。

 少なくとも戦前の日本を崇敬する連中は、アメリカに過剰に服従することが、戦前の「外交」を正当化することの欲望と一致すると、感覚だけでそう捉えていたようだ。

 

 ラ・フォンテーヌの『寓話』で喩えられるような「強者の論理」を肯定することが、「忠犬」日本の密かな欲望としてあったのではないか。

 もはや「世界の警察」であることをやめたアメリカに対し、日本は新たな御主人様を探し求めているかのように見える。

 そうした日本が、例え相手が御主人様の手を噛んだやつとしても、強く出るようなことはしないだろう。

 

 渋谷に立つ忠犬ハチ公は、実のところ焼き鳥屋の匂いにつられて毎度やってきたのだ、と言う説がある。

 もしそれが本当なら、どんなにか良いことだろう。

 日本は「忠犬」となることによって、理不尽な暴力を振るう絶対的な強者が持つ「力」をこそ、探し求めているように思えるのだ。

 

 

ラ・フォンテーヌ寓話

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