弔辞
あなたが志半ばに亡くなったこと、その志がどの程度のものだったかはさておき、非常に残念であり、イチ日本国民として悲しみに耐えません。国家のためを想うならば、生きて裁かれるべきだったと考えるからです。
あなたは努力するのが上手な人でした。
その場で音高く足踏みをして汗をかき、進歩どころか後退していても「最大限努力している!」と喚く人でした。
あなたは己の欲望に忠実な人でした。
大人であれば恥ずかしくてできないことを平気でやってのけ、それをまったく恥とは感じない人でした。
あなたは無知な人でした。
しかしその無知を指摘されると、指摘した相手が悪いと決めつける人でした。
あなたは妻を愛する人でした。
妻を守るために公文書を改竄させ、そのために人が死んでも何ら気に留めない人でした。
あなたは友人を大切にする人でした。
友人のためならそれ以外の人達に損失を与えるのが当然と信じる人でした。
あなたは祖父を尊敬するひとでした。
祖父の負の遺産すらも尊ぶ人でした。
そんなあなたを少なからぬ人達が支持しました。
見せ金をちらつかされて、それに引き寄せられたのかもしれません。
海上に投棄される飛翔体に恐れを抱いたのかもしれません。
理由は人それぞれでしょう。
しかしそれは間違っていた、と多くの人が気づいていると期待します。
終りに、そんなあなたへ、あなたが嫌ったであろう碑文を送ります。
安らかに眠ってください
過ちは繰返しませぬから
アーレントについて早速しらべてみた
コロナのせいで在宅時間が長くなり、妻の目つきが「いつまで居るんだろ、こいつ」な色を宿しつつあるこの頃、皆様いかがお過ごしであろうか。
すっかり日課となったはてブ逍遥で気になるのを見つけたので、暇にあかせて図書館で調べてみた。仕事のついでもあったからね。
はてブといっても、元のは私が普段鼻もひっかけないツイッターというやつなのだが、ちょっと聞き捨てならないことが書かれていた。
"アーレントはヒルバーグの大著『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』の査読を出版社から依頼されて出版不可の返事をしたのに、その後それを参考に(ちゃんと明示せずに)『エルサレムのアイヒマン』を書くという恥知らずの人間なので、彼女の推薦書などには何の価値も認められない。
このことは初耳だったので己の勉強不足を恥じるばかりだが、自身の老害化予防のためにもきちんと当たっておこうと思い立った。じじいになって一番よくないのが、こういうことを億劫に感じることだからね。
ツリーの中の記述によれば、件のスキャンダルはヒルバーグの自伝に書かれているという。幸い邦訳があるので図書館で借り出してみた。
以下、該当部分を引用する。
偶然にも私は、同じコレクションのなかに、それよりわずか四年前の一九五九年四月八日付で、プリンストン大学出版局のゴードン・ヒューベルが彼女にあてた手紙を発見したのだ。その手紙によって、プリンストン大学出版局が彼女に私の原稿の評価を依頼していたことを知った。彼女への謝意を述べながら、ヒューベルは小切手を同封していた。すなわちここにあるのは、ヒューベルが私の原稿を拒否するのに用いた主張――現実的に見て、ライトリンガー、ポリアコフ、アードラーによってこの分野の研究は達成されている――の根拠なのだ。この評価は、アイヒマンがアルゼンチンで逮捕される一年前のハンナ・アーレントの考えであった。
つまり、プリンストン大から出版拒絶された原因は、アーレントによる評価であった、と。この手紙は国会図書館の原稿課というところに保管されていたという。私信であっても公的な要素を含んだものならば、他人の目に触れることもよしとするということだろうか。
とはいえ、ヒルバーグの物言いはどこかまわりくどく直接的でない印象を受ける。もっと怒ってもよさそうなものだが、相手に引きずられないようにという節度がそれをとどめているのだろう。
なんせアーレントはヤスパース宛の書簡でこのように述べているのだ。
ヒルバーグが私を支持する立場を表明したという話は、まったく知りません。彼はかなり頭がどうかしていて、いまはユダヤ人の「死の願望」とやらについて喋々しています。彼の本はほんとうにすぐれていますが、ただそれは事実の報告に徹しているからこそです。もっと一般的な、歴史を扱っている序論的な章は、まるでブタ小屋。
以上はみすず書房の往復書簡集から引用した。書簡の日付は一九六四年四月二〇日である。アーレントは最後に下品な表現をヤスパースにあやまっている。なお、『記憶』によれば、アーレントによるあからさまな罵倒は、アメリカ版の翻訳からは削除されているという。
そしてアーレントは、ユダヤ人全体が潜在的に持つ「死の願望」がホロコーストに拍車をかけた云々の主張をヒルバーグが行っているように語っているが、その点についても『記憶』でうっかりよみすごしそうになるほど上品にやんわりと否定されている。
ユダヤ人の運命に関連させて、死の願望について書いたり発言した人物を、私は一人も思いつくことができなかったからだ。
さらに『イェルサレムのアイヒマン』において参考文献として『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』が明記されてないことについても、物わかりの良いことを書いて見せる。
一九六〇年代のピーパー社は、名誉棄損に関しては一九八五年よりもはるかに心配していた。『イェルサレムのアイヒマン』をドイツの読者向けに出そうとしたときに、名誉棄損で訴えられる可能性が障害物になったのだ。脚注で引用先を明かさない限りは、ドイツ国内で当時はまだ生きていた多くの人々に関する描写は実証できないからだ。
ピーパー社は『イェルサレムのアイヒマン』の版元であり、『アーレント=ヤスパース往復書簡』も出している。
参考資料について版元から問い合わせを受けたアーレントは、返事の中でこのように明かしている
ここでは、私が他の場所でしたように、一九六一年に出版されたラウル・ヒルバーグの『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』に提示された内容を用いています。
問題があったのはアーレント一人ではないが、ヒルバーグは終始自制のきいた筆致で事実のみを述べることで反駁している。
掘り下げればもっといろいろ出てきそうだが、とりあえずはこの辺で。
アーレントがまったく無傷の人でないことは、引用のおかしなところなどからも知っていたが。
ともあれ、さっさとワクチンの予約ができないものかと無駄にイラつく梅雨の日に、脳みそを軽く掃除できたようでスカッとした。
バイデン大統領誕生で予測されること
バイデン当確トランプ吠え面で、まず中くらいにはめでたい年末となりそうだ。
これからアメリカが、そして世界がより良い方向に向かうだろう。少なくともトランプ政権よりかマシに。
だが、ひねくれ者の私は、諸手を挙げて祝おうとは思わない。
トランプ信者の妄想ではなく、これから起こりうるであろうことを少しばかり予言しておきたい。
まず、対北朝鮮外交は後退するだろう。
そうなれば、金正恩は海辺に集う若者のように無駄にでかい花火を打ち上げ、海洋を汚染することだろう。
元々はトランプの気まぐれというか、「ノーベル賞が欲しい」という幼稚な願望から始まったことだ。オバマ外交を否定し、かつそれを乗り越えて見せるには、オバマのやり残した対北朝鮮外交正常化がちょうどいいと踏んだわけだ。
だが、もしその気まぐれで朝鮮戦争が終りでもしたら、自衛隊のレゾンデートルが危うく毀損するところだった。自民党も、新米は自覚がないかもしれないが、存在意義を失う。なので、旧い保守の面々はバイデンの方策について、表向きは拉致問題がらみでブツクサ言いながらも、内心ほっと胸をなでおろす、という次第となる。
次に、TPPにアメリカが門戸を開くだろう。
日米間にはすでにFTAがあるから不要、などということはない。
元々トランプの「アメリカ・ファースト」という狭い了見から拒絶したことなので、日本から打診すればバイデン政権が応じる可能性は十分にある。つい先日もRCEPが大筋で合意したことだし、太平洋経済圏でアメリカが存在感を薄めるようなことは絶対に避けるはずだ。
日経さんが社説でタコ踊りな文章を書く様が目に浮かぶようだ。
とりあえずこんなところか。
まだあるかもしれないが、それはまた気が向いた時にでも。
すっかりゴミ屋敷となったこの国の政治を誰が片付けるのか
なんか辞めるとか言い出したそうで、こちらとしては「ああそうですか」と深い溜め息をつくだけだ。
潰瘍性大腸炎というのは寛解と発症を繰り返すものだが、それにしても大腸に悪そうなものを毎日のようにぱくついていたのは不思議に思う。ものすごく痛いのだから、苦しんだあとは体を労ろう、と常識のある人間なら考えるのではなかろうか。
で、このあとどうなるのだろう。
政府はゴミ屋敷のごとく散らかりっぱなしだ。
散らかした張本人は腹痛を理由に片付けをサボるだろう。
そればかりか、片付けようとする人間が現れたなら、また元気に「にっきょーそ!にっきょーそ!」と騒いで邪魔してくれるに違いない。
ゴミ屋敷の悪臭が多少は弱まるかもしれないが、喜ばしい気持ちにはまだなれない。
新型コロナと新自由主義(追記あり)
「やべえ、風邪みたい。インフルかも」
「コロナだといいね」
この会話、別にブラック・ジョークの類ではない。コロナが新型にバージョンアップされる以前、インフルエンザはコロナなら症状は軽いし治りやすかったのだ。
インフルエンザにしたって、フランスあたりじゃめったに検査しなかったし、それ以前に38度程度の熱だと医者は「いちいち来るな」という態度だった。「インフルエンザ?だからどうした」てなもんである。
そして、現在の惨状がある。旧型コロナへの認識が、多少は拍車をかけたことはあっただろう。
そんな昔を懐かしむのか、「コロナは風邪」という人達がいる。
より病膏肓なものとして、「コロナはビル・ゲイツの陰謀」「コロナは5Gで広がる」などもあるが、それはおいておく。
たしかに風邪は風邪である。だがただの風邪ではない。
こうした認識の差異について、普段「科学的」を絶対のものとして信奉する方々は、まったく有効な発言ができない。たしかに風邪だからだ。
そしてそれに続けて、少なからぬ人達が「だからコロナを恐れない」と言う。
「コロナを恐れない」のはどういった人か。
まず、テレビを気にしない。天気予報のように流される「今日の感染者数」について、明日の降水確率ほど気にしない。死者の数よりも、熱中症対策が大事だと考える。
なぜなら、「自分の周囲にコロナで死んだ人がいないから」だ。
そして、「死ぬのは高齢者や、持病持ちだから、かかったらあきらめればいい」と吐き捨てるように言う。
私の周囲にもコロナで死んだ人間はいないが、上記のようなことを口にする人間は存在する。彼自身「高齢者」であり「持病持ち」である。そして、大手出版社を定年退職し、現在は趣味のヨットに興じるちょいワルグルメオヤジでもある。さらには、弱者への福祉を否定する新自由主義者だ。
新自由主義者は、自分が弱者に転落するかもしれない、という想像力に欠けている。
「コロナは風邪」という人達は、自分がコロナにかかるかもしれない、という想像力に欠けている。
新自由主義者は弱者など切り捨てればいい、と考えている。
コロナが後期高齢者や透析を受ける人達を減らしてくれるのなら、それは天の配剤だとも考えている。
新自由主義者にとって、コロナは弱者の減少に拍車をかけてくれるものであり、自分の思想に合致した病いであるわけだ。
ゆえに彼らは、コロナを恐れず株式投資に精を出す。GDPが何%下がろうが構わない。状況は自分達にとって「理想的」だからだ。昨今の株高はそうした理由なのだろう。
アフターコロナがどうなるか知らないが、医療福祉の充実へ人々が関心を向ける、と簡単にはいかないと思われる。
なお、私は酷く船酔いする性質なので、ヨット遊びはずっと断っている。
文中、コロナや新自由主義者についての記述が雑なことをお詫びします。
(以下追記で蛇足)
どうしようか迷ったが、ちょっとびっくりしたので追記。
以下の『アデライドの花』というコミックスなんだが、伝染病が重要なシチュエーションになっている。病いは南国から来た高貴な花嫁によって持ち込まれたもので、お付きの医者たちは「ただの風邪みたいなものです」「心配いりません」と断言する。しかし、人々はばたばたと死んでゆく。医者たちも死ぬ。
そして、重要な登場人物の女性の名前が「コロナ」である。
しかもこれ、新型コロナ流行以前に描かれているのだ。
娘から教えられたのだが、さすがに驚かされた。
可愛らしい絵柄の割に、ストーリーは酷く殺伐としており、エドワード・ゴーリーなどを好む人ならお気に召すかと思われる。
「批判は絶対しないでください」とされる状況とは
「リーマン・ショックでの経済対策を上回る、かつてない規模の対策をとりまとめる!」
とぶち上げておいて、「マスク2枚!」でドヤ顔とか、吉本新喜劇のずっこけネタのようだった。
多くの国民はウケるどころかブーイングの嵐だが、政府いたって真面目にこれをおっしゃったらしく、何やら「真意を汲み取ってくれ」風のサムいツイートが垂れ流されたりしている。
togetter.com 小泉信じろ、いや進次郎のポエムもかくや、という出来栄えだが、このような幼児めいた言い訳でも、信者たちにはありがたい御託宣に聞こえるようだ。
だが問題があるのは、マスク2枚云々よりも、ここに湧き出ている「一生懸命やってる人を批判するな」という、ものすごくきもちわるい主張の方である。
これよりも端的な例がこちらである。
#アベノマスク pic.twitter.com/IZgfGOTE32
— 浦沢直樹_Naoki Urasawa公式情報 (@urasawa_naoki) 2020年4月2日
こんなただの似顔絵にも、「一生懸命やってる政府を批判するなんて」といったカラーのツイートが殺到した。
「一生懸命でんでん」には「勤勉なバカほど恐るべきものはない」というゲーテの名言(オリジナルはもっと遠回しだが)をあてて、インテリっぽく下に見るのも一つの手段だが、ここにはそれ以上に深刻な問題が横たわっている。
そもそも何事かを一生懸命やってれば何かしら批判を受けるものだし、その覚悟なしに「一生懸命」などにはならないことは、普通の社会人なら呼吸するようにして身につけている常識だろう。
では、絶対に批判してはならない「一生懸命」とは、どのような人によってなされるものなのか。それは次の三つである。
・幼児
・ひきこもり
・認知症
幼児については、怪我をしたりさせたりしない限り、叱らないことが主流になっている。
ひきこもりはどうか。彼らは決して怠けているのではない。全身全霊をもって全力でひきこもっているのである。彼らにとってそれは、他から決して批判されたくない「努力」である。
認知症については、ケアする人たちの基本的な留意事項として、「絶対否定しない」ということが挙げられている。余計に病状が悪化してしまうからだ。
「一生懸命やってる人を批判してはならない」という文言のきもちわるさは、こういうところからやってくる。
日本を代表する政権が、幼児やひきこもりや認知症のようであってはならないはずだが、「消去法で自民を選択する」ような中立中道の方々は、そのようにすることこそが絶対に正しいとお考えのようだ。
このような政権擁護は、政権の「病状」を悪化させることはあっても、快方に向かわせることはない。
Covid-19はいずれなんらかの形に落ち着くのだろうが、こちらの病がそのままなら、日本は最悪をさらに上回る事態となるだろう。
なお、このエントリーが、「幼児」はともかく、「ひきこもり」「認知症」を「バカにしている」と受け取る人には、前もって謝罪しておこう。
「誤解を与えたのであれば申し訳ない」