おまえはなにをいってるんだ

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 タイトルの一言で全て言いつくしているような気がしないでもないが、やはり多少のことは述べておこう。

 

内閣府が中長期の経済財政に関する試算をまとめた。名目の経済成長率が中長期で3%以上になっても、2020年度の国と地方をあわせた基礎的財政収支を黒字にする政府目標の達成は、難しいことが改めて鮮明となった。 

 

 つまり、どんなに皮算用しても追っつかないとわかった、と。

 改めて「出口なし」が数値として鮮明になったというわけである。

 財政再建絶対の日経さんが、増税して緊縮しろと喚いているが、増税はあくまで消費税であり、緊縮はあくまで福祉関係だということである。

 

 第一に、社会保障費を中心とする歳出削減・抑制は不十分だ。所得や資産にゆとりのある高齢者向けの給付削減や負担増は待ったなしだ。

 第二に、政権は10%への消費増税を2度も先送りした。景気への配慮は必要だが、真に必要な増税から安易に逃げてはならない。

 

 それには一層のトリクル「アップ」が必要であり、そのための構造改革をさらに推し進めるべきだ、とする。

 

 第三に、構造改革にも課題を残す。たとえば国家戦略特区を舞台とした規制改革では、いまだに自家用車を使った移動サービスや、インターネットなどを利用した遠隔服薬指導の実績がない。 

 

 国家戦略特区とやらが、政治腐敗の温床となることは明々白々となったにも関わらず、さらにそれを持ち上げるということは、日経さんと日経さん周辺の人々は、腐敗の恩恵に与る立場にあるのに、「滴り」がまだない、もしくは、まだまだ足らないもっともっと、ということなのだろう。

 

「改革したふり」では困る。 

 

 字面だけは同意。

 あべぴょんのやりたいのは「改憲」だけで、他はそのための支持率アップの道具なのだ。それがわかっていながら、日経さんは幼児をあやすようにあべぴょんを「信じ」、甘やかしてきた。

 内閣府の試算はそのツケが露わになっただけであり、ツケについては日経さんも、日経さんの周りの方々も、十二分に支払い責任がある。

 その「ツケ」を下々に押し付けることが、

 

少子高齢化グローバル化に対処できる日本経済へと体質改善を加速することだ。 

 

 などというのは、全くもって「おまえはなにをいってるんだ」というものである。

 

 

 

ホワット・アー・ユー・トーキング・アバウト?

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  • アーティスト: 近藤等則,ペーター・コヴァルト,豊住芳三郎トリスタン・ホンジンガー,トリスタン・ホンジンガー,近藤等則,ペーター・コヴァルト,豊住芳三郎
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星新一の大予言

 小学校高学年の頃、星新一にハマってよく読んでいた。友人の女子高生のお姉さんが愛読していて、背伸びしたのである。小学生にはよくわからない部分もあった(株がどうしたとか)が、概ねのところは楽しむことができた。中学に入る頃には文庫になっているものは全部読んでいた。

 彼の未来予測のエッセイで、印象に残っている部分がある。「テレビ電話が発明されるが普及しないだろう」などのうがったものの中に、「生存定年制が施行されるだろう」というものがあった。

 つまり、生きる年限が国家によって決定されているという、なんともディストピアなお話である。

 子供心に、「さすがにこれはないだろう」と思っていたのだが……

 

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 日経さんが代弁する上つ方の本音は、じんわりと「生存定年制」に重心を移しつつあるようだ。いわば、ソフト「生存定年制」である。

 

これまで私たちはGDPの10%を大きく超さぬよう不断の改革で膨張を抑えるよう求めてきた。 

 

 「私たち」、それはどこのどちらさんですかね?

 それはともかく、無駄を削減することはもちろん必要だが、日経さんの物言いでは、老人介護そのものが無駄とされそうな勢いである。

 

戦後ベビーブーム期に生まれた団塊の世代「1期生」が後期高齢者になるまでに5年しかない。安倍政権は制度の持続性を確かにする改革に早急に乗り出すべきだ。 

 

 団塊の世代を軽侮し、さらには若者たちに老人への憎悪を煽った目的は、このあたりにあったのかと思わせられる。

 遠回しに「団塊の世代にはとっとと死んでもらいましょう」と言っているわけである。

 私はその世代には当たらないが、余殃をかぶることになるだろうから、全くの他人事とは思われない。

 

 政権は19年10月に消費税率を10%に上げる。

 

 消費増税を断定している。日経さんがここでこう言うということは、すでに揺るがしがたい決定事項なのだ。「あべぴょんが辞めたら増税されるぞ」という寝言をちらほら見かけるが、もはや辞めようがどうしようが猶予はないのだ。

 

医療・介護費の膨張構造を温存したままでの増税は、穴が開いたバケツに水を注ぐに等しい。増税分を社会保障の充実に有効に使うためにも、まず給付抑制に主眼を置かねばならない。

 

 しかも、その増税分を福祉に使わないことも決定済みである。

 

政府は18年度に医療・介護の公定価格である診療報酬と介護報酬の増減率を同時に改定する。主に医療職の人件費に充てる診療報酬本体の改定率は、日本医師会を巻きこんでの大議論になろう。

 デフレが続き、賃金水準が全般に伸び悩んだこの十数年、報酬本体は上昇基調をたどっている。一段の引き上げの必要性は小さい。

 

 なんで「必要性は小さい」という結論に至るのか。論理が破綻しているが、そんなことは問題ではないのだろう。後半ではこのように語るからだ。

 

介護は重労働だ。それに見合う賃金の引き上げが課題だが、財源を介護報酬だけに頼るのは無理がある。解決策の一つは、利用者が自費でサービスを受けやすくすることだ。その前提として保険サービスと組み合わせる混合介護の使い勝手をよくする必要がある。

 

 要するに、「貧しい年寄りはさっさと死ね」というわけである。

 日経さんの目指すところは、ソフトな「生存定年制」なのだろう。

 ただし、上層部をのぞいて。

 

 高齢者などからの反発を恐れて医療・介護改革を先送りすれば制度がもたない。為政者は将来世代に責任を持ち、正面から切り込むべきである。 

 

 「生存定年制」について、星新一ショートショートを書いていたと思う。彼の作品は時に全体主義的なディストピアを肯定的に扱い、社会のあり方への疑問を投げかけるものが多く印象に残る。

 しかし、一番当たってはならないものが、最悪の形で(富裕層だけはその制度から逃れる形で)到来することについては、果たしてどのように考えたことだろうか。(こういうことは小松左京の領分か?) 

 

 

きまぐれ星のメモ (角川文庫 緑 303-2)

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共謀罪とは「こんな人たちに負けるわけにはいかない」ということ

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 200%国側に立って書いた、日経さんの「日」が「産」に入れ替わったかのような社説である。

 

国と沖縄県が再び法廷闘争に突入する。なぜかくもいがみ合わねばならないのか。最後は司法の判断に委ねるにしても、ここまで話がこじれた要因をよく考え、摩擦を少しでも和らげるための努力をしてもらいたい。 

 

 喧嘩両成敗のようなふりをしているが、日経さんは沖縄側にしかその「努力」とやらを求めていない。

 

 最高裁は昨年12月、県が破砕許可を取り消したのは無効だとする判決を下した。今回も国の主張を100%支持する可能性が高い。日本は法治国家であり、県は判決が出たら従うべきだ。 

 

 へー、原発再稼働差し止めの仮処分が出た時、日経さんは日本が法治国家だということを棚上げしていたようだったが。自分に都合のいい時だけの法治なのか。

 

 安倍政権は県の提訴で工事が中断した場合、翁長雄志知事に損害賠償を求めることを検討中だ。億円単位になるとの見方もある。来年の知事選をにらみ、翁長知事に打撃を与える狙いのようだ。 

 

 これ、許されていいことなのか。知事の意思の背後には多くの県民の民意があること忘れていないか。これはあべぴょんが沖縄全体を侮辱する行為と言える。

 まともな大人なら、やめさせるようにするべきだろう。

 しかし、あべぴょんを「信じている」日経さんは、このようなことを言い垂れる。

 

そんなことをすれば、県民の反本土感情を勢いづけるだけだ。意に沿わない相手がいると、「こんな人たちに負けるわけにはいかない」とむきになる。安倍政権のこうした姿勢が批判された東京都議選の二の舞いになりかねない。 

 

 書いた人間は「上手いこと言ったぜ」と得意になっていることだろう。ふくらんだ鼻の穴から、蓄膿の臭いが漂ってきそうな文章だ。

 沖縄の問題を全て基地反対の側に押し付け、ついでに「こんな人たちに」をただの「感情の問題」として一般化し、無効化しようとしている。

 

 日経さんのこのような社説を読むと、やはり「共謀罪」の最初の標的は沖縄のように思われる。

 

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人権はなぜ嫌われる

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今こそ日本を含めた世界の民主国家が一丸となって中国の人権状況に警鐘を鳴らす時だろう。 

 

 警鐘を鳴らすだけ? そのあとは?

 中国ほーいもーがどうたらぬかすより、中国の人権活動家を支援するくらいしたら? それで少々中国との関係が悪くなろうと、望むところなんでしょ?

 と皮肉の一つも言いたくなるのが日本の現状である。

 なんせ政権与党が人権を嫌悪してやまないのだから。どのくらい嫌いかというと、中国よりも北朝鮮よりも左翼よりも嫌いなくらいだ。

 なぜそんなに人権が嫌いなのか。

 

 人権というのが嫌われる要素の大きなものとして、自分が憎悪する人間であっても、存在をきちんと認めなくてはならない、ということがある。

 「汝の敵を愛せよ」(マタイ福音書)である。

 そうするとすぐ「キリスト教由来の思想だ、日本には馴染まない」と騒ぐ人がいるが、日本にだって同様の思想はある。

 「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(歎異抄)だ。ついでに、バガヴァット・ギーターにも似たような云為がある。ガンジーはそれを愛読していた。

 そこにあるのは、愛というよりも、憎悪の排除である。

 憎悪をすることはたやすく、また同一の対象に振り向けることでやすやすと「連帯」しうる。

 孤独にさいなまれる人にとって、憎悪は甘やかなドラッグだ。

 意に染まぬものを憎悪することは人間の本性である、というのが「保守」の方々の論の根っこにある。それならば、ドラッグに溺れることもまた人間の本性と言えるだろう。

 

 ある種のドラッグを服用すると、宇宙と一体化したように錯覚できるという。

 憎悪によってもまた、人は他の人々と連帯しうるように感じられる。

 憎悪によって他の人々との連帯を得ていた人間にとって、人権はせっかくつかんだ連帯感を消し去り、自分を再度地獄のような孤独へと突き落とすもののように思えるのだ。

 そして憎悪というドラッグをバラまいて多大な利益を得るものにとっては、阻害薬のように憎悪ドラッグの機能を制限する「人権」が、嫌悪の対象となるということは簡単に理解できることと思う。

 権力を持つものにとって、民衆が人権によって個々にあるよりは、憎悪によって連帯していてくれた方がやりやすいのだ。

 

 こと人権を嫌うことに関しては、中国共産党も日本の自民党も同レベルである。いや、特定秘密だの共謀罪だの強行採決したこちらの方が、本質においてやや上回っているかもしれない。

 人権問題について日本が国際的に発信していくことは大いに賛成だ。

 そうすれば、国内の人権問題からも目をそらすことができなくなり、共謀罪を沖縄の活動家に振り向けるなどということも阻害されることだろう。

 

 

聖書と歎異抄

聖書と歎異抄

 

 

 自民党が人権を嫌う最新サンプルとしてメモ↓

 

 

 二重国籍=スパイだそうで。

 

 追記として劉暁波氏の言葉を

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うらみは、個人の知恵や良識をむしばみ、敵対意識は民族の精神を堕落させ、生きるか死ぬかの残酷な争いを煽りたて、社会の寛容性や人間性を壊し、1つの国家が自由で民主的なものへと向かうことを阻むものだ。だからこそ、私は、個人的な境遇を超越し、国家の発展や社会の変化に目を向けたい。そして、最大の善意をもって、政権の敵意と向き合い、愛をもって憎しみをやわらげたいと願っている。 

 

それならもうすでに対岸ではなくなっているような

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 なんだかピンとこない社説である。

 「対岸の火事ではない」などと言いつつ、「日本にはまだまだ火がつくような燃料が足らない」というような論で締めている。

 それとも日経さん独自のネットワークで、火がつきそうな企業の情報をつかんでいるのだろうか?

 というか、現時点でこのような「火事」について書かれると、全く分野の違う場所でのもう一つの「火事」が思い出されてしまうのだが。

 

「まず事業を始め、問題はあとから解決する」姿勢を貫いてきた。 

 

 とにかく閣議決定して、法律を強行採決してしまう。

 

女性社員のセクハラの訴えを無視 

 

 自称ジャーナリストの準強姦罪をもみ消した。

 

競合企業から自動運転の技術を盗んだとの疑惑 

 

 国有財産を格安で身内に分けた。つまり国民の資産を盗んだ。

 

ラニック氏のドライバーに対する暴言 

 

 「こんな人たちに」とかなんとか。

 

大株主のベンチャーキャピタルから辞任を求められた。

 

 そろそろか?

 

一連の問題から浮かび上がるのは、ブレーキ役となる人材がいなかった実態

 

 お友だちを周りに集め、やりたい放題だった。

 

 ……とまあ、こんな感じで、名指さずとも誰のことだかわかるような感じだ。内田樹が「今の総理は民主主義で選ばれた政治家ではなく、企業経営者のよう」と言っていたのを思い出す。

 

 日経さんの思惑が奈辺にあったかは知らないが、そういう対岸の火事ならすでにこっちでも燃え盛っている。

 古代ローマでは、川向こうの火事に手を叩くplauditeのを戒めたというが、拍手して眺めるうちにこっちの背後も火がぼうぼう、というわけである。

 

Plaudite! Acta est fabula. 拍手を!芝居は終わった。

アウグストゥス

 

ローマ皇帝伝 上 (岩波文庫 青 440-1)

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またもやガラパゴス?

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 幼い頃、大阪万博でヨチヨチと走る電気自動車を目にしてから、もうすぐ半世紀となる。

 ここ何年かのEV周辺の動きは凄まじく早く、またしても日本は後手に回りそうだ。

 

気になるのは日本メーカーの動きだ。トヨタ自動車など日本車は燃費改善などエンジンの改良で一定の成果を上げてきたが、過去の成功にとらわれるあまり、新たな潮流に乗り遅れてはならない。 

 

 すでにしてそうなりつつあるように見える。

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 日経さんはこの現状に対して、EVだってそんなにいいことばっかじゃないよ、まだまだ大丈夫だよ、と第一志望を滑った受験生を慰める塾講師のようなことをおっしゃる。

 

 昨年の世界新車販売に占めるEVの比率は0.5%にすぎず、ハイブリッド車を含めた電動車全体でも3%弱にとどまる。電池のコストがエンジンに比べてまだまだ高く、一回の充電で走れる距離も短いからだ。 

 

 この程度の課題など、時代の潮流が激しさを増せば、たちまち角砂糖のように溶けて消えてしまうだろう。

 そうした時代についていけないのは、何も大規模製造業に限らない。

 

他方で温暖化対策としては発電時に発生するCO2も勘定に入れて考える必要がある。CO2排出の少ない原子力発電の比重が高いフランスが電動化に動くのは、この観点からも理にかなっている。

 

 突然わけのわからないことを言い出していきなり結論する日経さんも、十分に「時代遅れ」の資格がある。いや、わかることはわかるが、いい大人が口にするような分析じゃないだろう。幼稚にすぎる。

 どうせなら、これを機に自動車業界にある「岩盤規制」を崩そう、くらいのことは言ってもらいたいものだ。

 公道をうろちょろ走るカートなどを見るにつけ、自動車製造業への参入障壁ってのはなんなのか、と疑問を覚える。

 国家戦略がどうしたとかぬかすなら、どこぞの都市を丸ごとEV優遇にして外資大歓迎にしよう、くらい提言してみてはどうなのか。

 まあ、日本のメディアは自動車業界に頭が上がんないからねえ。

 日経さんは特に。 

 

印象操作(笑)とポピュリズムと

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 今まで机に向かってパソコンでエロサイトばかり見つつ、さも勉強しているかのような「印象」を振りまいていたお子様が、テストの当日になって逃げ出したかのような「印象」になっている。

 土砂災害でも帰国せず、「テスト」が終わってからのこのこ帰ってくるという、最悪の「印象」となっているわけだが、こういうのもあべぴょんにとっては「印象操作」なのだろう。

 

 拉致問題についても北方領土についても最悪の結果をもたらしながら、メディアによる「印象操作」のおかげでこの政権は今までながらえてきた。

 その大切な「印象」に自ら泥をぶっかけてしまっているのだが、ご本尊はまったく自覚できていないだろう。

 あべぴょんが気にする「印象」とは、すなわち「支持率」である。

 支持率さえ高ければ、何をしても許されるように振舞ってきたので、それが下がってくると非常にまずいわけだ。自業自得というわけだが、問題はそれだけではない。

 

 これはあべぴょん政権以前からの傾向だと思うが、とにかく政権の「支持率」をもって第一の尺度とするという、マスメディアやそれに関わる有象無象の論調によって、その前提としてある「議論」、すなわち民主主義の根幹がないがしろにされているのではないか。

 支持率支持率と騒ぐことで、「じゃあ支持率さえ高けりゃいいんだろう」というお子様政権が出来上がり、さらには議席さえあればいいんだろうと強行採決を連発するようになった。

 支持率第一の考え方と強行採決とは、一直線に結ばれている。

 以前は、政権がなしえたことが第一にあり、その結果としての支持率というものがわかりやすい目安として語られていた。

 それがいつの間にやら(たぶん、小泉あたり?)支持率こそが第一のように語られる仕儀となり、それがこのお子様政権を「一強」にしてしまったのだ。

 ついでに、アベノミクス(笑)とやらで、やたら株価を吊り上げているのも、同様の思考によるのだろう。株価さえ上がっていれば、「景気は良くなっている!!」と強弁してしまえるわけである。

 ついでに失業率の低下も同じようなもので、賃金が上がってこそ成果と言えるはずが、「失業してるよりマシだろう」という上から目線で思考停止している。

 これらのような「数字さえあればその背景について思考しなくても良い」という風潮は、ポピュリズムと呼べないだろうか?

 私はそのように考えたので、中途から支持率について気にするのをやめることにした。

 

 現在支持率が降下していることについて、今まで自分の支持率の高さばかりを誇っていたあべぴょんはしかたないが、これからは数字の背景を前景にもってくるようにしてもらいたいものだ。

 勉強してとった100点も、カンニングしてとった100点も、100点は100点にちがいない、というのでは、社会はとどまることなく腐敗していくことだろう。

 

 

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