裁量労働拡大よいつまでも先送りされてくれ
さて、日経さんの裁量労働についての御託である。
柔軟に働くための労働時間制度の改革を、後退させてはならない。仕事の進め方や時間配分を働き手自身が決められる裁量労働制の対象業務の拡大は、できるだけ早く実現すべきだ。
前回でも触れた通り、裁量「労働」と言いつつ、「仕事の進め方」という日経さんの詐術である。しかし、こういう錯誤は一般認識として広まってしまっているので、堂々と述べ立てることができるわけである。
安倍晋三首相は裁量労働制をめぐる不適切データ問題を受けて、働き方改革関連法案から同制度に関する部分を切り離し、今国会への提出を断念する方針を決めた。だが対象業務の拡大を先送りすればするほど、働き方改革の眼目である労働生産性の向上は進みにくくなる。柔軟に働ける制度の意義を政府は認識し直してほしい。
あべぴょんが下手をうったわけだが、どうしてそのようなことが起きたかというと、まずあべぴょん自身にそれほど熱意がないこと、なぜ熱意がないかというと、あべぴょんが「裁量労働」というのがよくわからないということ、さらには「労働」というものがどういうものなのか、実感としてつかめていない、ということがあるだろう。
国会での裁量労働制の論議が不適切な調査データの問題にばかりとらわれているのは、おかしなことだ。時代の変化に合わせた労働法制のあり方をどう考えるか、という本質的な議論にこそ力を入れるべきではないか。
なので、最初はあべぴょんもデータの捏造について謝罪しても、法案は通そうとしていたわけだ。ところが、その後に間の抜けたことがどんどん明らかになってきたので、このまま法案を通せば政権の「印象」が悪くなると判断したのだろう。
しかもこれは直接生活に関わる「労働」の問題なので、なんとなくやり過ごして北朝鮮からミサイルでも飛んでくれば忘れてもらえる、という類のものではないのだ。戦争法案や共謀罪とはその辺が違う。「間抜けな政府がやらかした法律で生活が苦しくなった」という「実感」が広まれば、今まででっちあげた「アベノミクスで景気を良くした」という「印象」など、やすやすとぬぐいさられてしまう。
時間をかけて働くほど賃金が増える現在の制度には、働き手自身の生産性向上への意識が高まりにくいという問題がある。戦後、長く続いてきた仕組みだが、国際的にみて低い日本のホワイトカラーの生産性を上げるには制度の見直しが不可欠だ。
現在でもホワイトカラーとされる人たちで、時給感覚によって働いている人は少ないだろう。でなければ「サービス残業」などという悪しき慣習は生まれないはずだ。つまりは、「サービス残業」をサービスではなく「当然」のものにしたい、ということである。
グローバル競争がさらに激しくなり、人工知能(AI)が普及すれば、生産性の低いホワイトカラーは失職する恐れもあるだろう。
ホワイトカラーの賃金をAI導入にかかる経費よりも安くしておけばいい、ということである。
社会のこうした変化に備える改革が、裁量労働拡大であり、成果をもとに賃金を払う「脱時間給」制度の創設である。裁量労働の拡大では、法人顧客への提案業務をともなう営業職などが新たに対象になる。一部の専門職などに限られている対象者が広がる。
「社会の変化に備える」とは、安い賃金で目一杯働くということであるらしい。
最初の法案が提出されてからこの4月で丸3年になる。日本の成長力の底上げを考えるなら、裁量労働制の拡大をこれ以上、先延ばしする時間は本当はない。法案に残す脱時間給制度の新設は政府が意義を十分に説く必要がある。
先延ばしする時間はないとか、どういう根拠から言ってるのか。アベノミクスでバブル越えで戦後最長の景気拡大なんじゃなかったのかね?
今回の国会論議の混乱は首相が不備なデータをもとに裁量労働制が労働時間の短縮につながるかのような答弁したことに端を発している。政府内には裁量労働の拡大について、実態を把握し直さない限り推し進めないとの声がある。
「声がある」とか、当然のことを言っているのに、雑音めいた扱いだな。
しかし、そもそも裁量労働制は、働く時間の短縮を目的とした制度ではない。厚生労働省の労働政策審議会はこれまで相当の時間をかけて議論してきた。国会審議の先延ばしは日本の生産性の低迷を長引かせるだけだ。
はい、ここ重要。
そもそも裁量労働制は、働く時間の短縮を目的とした制度ではない。
それはそうなんだろうが、捏造したデータを使って労働時間が短縮されるかのような「印象操作」を行ったのが間違いの元だ。
日経さんは二言目には「日本の労働生産性の低さ」を言うが、それの原因はむしろ経営者たちの側にあると思われる。
誰か社長が務まるAIを作って会社を経営し、社会を変革してもらえないかね。今の日本企業の経営者などは、だいたいAIに入れ替えたほうが業績が良くなると思う。社長への報酬がいらなくなるし。
ついでなので、アダム・スミス『国富論』から、今回の件に関わる言葉をいくつか引用しておこう。
雇用主の利害は社会全体の利害とはくいちがいがあり、正反対ですらある。
雇用主たちが商業についての新たな法規を提案したなら、注意を怠ってはならない。
雇用主たちはよく、社会全体をあざむき、機があれば抑圧し、実際に幾度もそうしてきたのだから。
労働者の団結というのはよくきくが、雇用主の団結などはあまりないことだといわれる。しかしそれを信ずるならば、雇用主について知らないというより、世間知らずというものだ。雇用主はいつどこにあっても団結し、秘密裏に労働者の賃金を引き上げないように画策している。
政府を従来のごとく財産の安全を守る制度とみるならば、実態として、その制度は貧乏人から金持ちを守るものであり、財産をまったくもたない人から多少なり財産をもつ人を守るための制度なのである。
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「裁量労働」という名の詐欺
裁量労働に関する国会のドタバタについて、「その調査は裁量労働的にどうなの?」というツッコミが浮かばないでもないが、当を得た批判が多くなされているので、ここで屋上屋を架することはやめておくことにする。
また、日経さんお得意の「サルの論理」についても、言説への批判はまた次の機会に譲る。
この問題は「裁量労働」など存在しない、ということにある、と私は考えている。
裁量労働とは「労働」ではなく、本来「仕事」であるべきである。
「労働」とはおおむね肉体的で単純なものであるが、それは生活と直接に結びつき、なくなれば個々人の命にかかわるものである。しかし、だいたいが不自由だ。
「仕事」は個人の技量によって作品を制作するが、生活よりも快楽に結びつくことが多く、なくなっても直接命に関わるようなことはない。そして、そこそこに自由である。
一般に使用される語法として「仕事に行く」とは言っても、「労働に行く」とは言わない。「肉体労働」という言葉はあるが、「肉体仕事」といのはない。「労働者」という呼称はあるが「仕事者」とは呼ばない。などなど。
仕事と労働は無意識に別物として語られはするが、それはまた無意識であるがゆえに、時に雇用者側に都合よく錯誤して語られる。
その錯誤は、この「裁量労働」という言葉にもまた同様に用いられている。
労働は元々「裁量」などできない。
裁量できるのは「仕事」の方である。
「裁量」は労働を仕事であるかのように錯覚する、もしくは錯覚させたい、さらには錯覚したい、というライトモチーフによって語られる。
かくして、労働を「仕事」であるかのように錯誤させ、労働者を過剰に搾取するためのツールとして、「裁量労働」という詐欺的呼称が使用されるのだ。
こうした詐術に社会が自覚的にならない限り、もし今回この法案が挫折したとしても、繰り返し同様の詐欺が行われるだろう。
脳みそを食べられても大丈夫と言いつのる日経さんなのだった
円陣を組んで「ふぁいと〜お〜」とか、空々しい掛け声を高らかにあげてみせる日経さんである。
本当なら警戒すべきところを、日経さんの立場としてはそう言えないので、景気づけに応援することでごまかそうとしているのだろう。
そんなうそ寒い社説のポイントはこの部分である。
論説の途中に突然一行だけ挟まれるので異物感が半端ないんだが、問題はアシックスと一緒に並べてさりげなさを装う東芝さんの方である。
東芝CEOに大物バンカー就任、53年ぶり外部登用に社内は警戒 | inside Enterprise | ダイヤモンド・オンライン
ハゲタカが東芝を食い散らかした挙句、ついに脳みそを食べに来た、という構図が思い浮かぶ。
CVCキャピタルをハゲタカと呼ぶかは異論が出て来そうだが、東芝の尻肉をむさぼり食らう買収はその名に値する、と私は考える。
企業性善説によってM&Aマンセーな日経さんは、この先どんな地獄が待っていようと、天国への道であるかのようにアナウンスしなくてはならないので、とりあえず明後日の方向へ気合いを入れてみた、というところである。
脳みそを食われた企業がどうなるかといえば、ゾンビとなって社員を喰い散らかすようになるのだ。
心ある東芝社員は逃げた方がいい。それとも、すでに「死体運搬係は営倉へ」のアナウンスが、子守唄のように聞こえてしまっているのだろうか?
「ひとつ、いつも静かなアナウンスがあったんだ。子どもをあやすみたいだったな。一日に何回もだ。ゾンダーコマンドーへの呼び出しだった」
「というと?」
「Lwichentrager zu Wache」目を閉じたまま、静かに彼。
訳そう……「死体運搬係は営倉へ」。何百万人と殺すための施設だ、ありふれた呼び出しだったと知れる。
「二年くらいだな、うるさいスピーカー越し、音楽の合間にそんな呼び出しを聞いてると、だ。死体運搬係ってのが、突然えらくいい仕事に聞こえてきたんだ」
「分かる気がします」
「君は分かるのか?」頭を振り、彼。「私は分からん。いつも恥じている。ゾンダーコマンドーに志願するだなんて――何とも恥ずべきことだ」
「そうは思いませんが」
「私は思うんだ」彼は言う。「恥ずべきことだよ……もう二度と、この話はしたくない」
あべぴょんのあべぴょんによるあべぴょんのための改憲
慣用句に頼って空振りする日経さん
とにもかくにも保護主義を蛇蝎のごとく嫌う日経さんである。
世界貿易機関(WTO)は安保を理由にした輸入制限を認めているが、想定されているのは差し迫った紛争など例外的な事態だ。輸入制限を正当化するような安全保障上の事態が起きているわけではなく、米国が導入に踏み切れば、安保を理由にした輸入制限が各国で乱用されかねない。
あれれ?北朝鮮は?
ついこないだ、どっかの国が「国難」とか喚いて選挙してなかったっけか。
つまり、日本でやたらと報道されているのは大袈裟もいいとこだ、と?
こうした枠組みを無視して独断的措置を取れば、中国などが「問題を起こしているのは米国」と矛先をかわそうとするのは確実だ。
グローバルな自由貿易の盟主の座は、とっくに中国に移ってるでしょ。
米政権はすでに多くの輸入鉄鋼製品に反ダンピング(不当廉売)関税を課しており、鉄鋼価格は上昇している。
じゃあ、今更何を騒ぐのやら。
「百害あって一利なし」と鼻の穴を膨らませる割には、その百害の方がイマイチはっきりしない日経さんなのだった。
胸を張ってお茶を濁す日経さんなのだった
また日経さんのポストイット社説である。
レポートを書くとき、ポストイットに思いついたことを書いて貼り付け、あーでもないこーでもないと順番をいじり、適当に間をつなげて一丁上がり、というやり方がある。
日経さんの社説は「適当に間をつなげる」ということすら、面倒臭がってやってないようだ。
しかもお題は、まだ「試案」がまとまったような気がしないでもない、という段階だ。
そんなに書くことがないのかね?
会社と株主の関係なんて、何をどうしたって正解なんか出てこないんだから、何をどう言おうがお咎めなしである。
しかし、日経さんにとって、会社も株主も大事な大事な顧客であり、その間に挟まって何か申し立てるとするなら、胸を張ってお茶を濁す、くらいしかできないわけだ。
もう株の取引なんざAI に全部お任せにして、総会でもAIに喋らせたらいいんじゃないのかね。ついでに会社経営もAIに任せれば、総会なんざ秒とかからず終了するだろう。
未来を語る者は反日である
「未来を語るものは反動だ」というのはマルクスのセリフだ。
基本的にマルクスは未来だの理想だの語る者を嫌っていた。アジテーションで相手を罵倒するレトリックとして口にすることはあっても、自らの思想にそれらの居場所を造ることを良しとはしなかった。
さてその未来、日本における経済の未来だが、アベノミクスであるところの異次元緩和によって、語ることを封じられている。
緩和の出口どころか、ハルヒコの「後任」すら考えることをはばかられる、それが日本の現状である。
当ブログで幾度か書いているように、日銀による国債引受がなぜ禁じ手かといえば、それがハイパーインフレを招くからでも、モラルハザードをもたらすからでもなく、「出口」がないからだ。
出口がないということは、未来がないということでもある。
未来とは、人間が思い描きうる将来のことで、それを失うことは、未来を基準にして自らの行動を決定することをやめるということでもある。
ここから先、やってくるのが地獄か天国か知らないが、とにかく突き進むしかないのだ。うかつに未来(出口)など探せば、たちまちバランスを失ってずっこけてしまう。
ゆえにアベノミクスを信奉するリフレ「派」のみなさんは、アベノミクスに対して「未来」を語ることをしない。
日本の経済に関する思考から「未来」を奪い、未来を基準として行動する「理性」を奪い、ただひたすら突進するものにとって、なすべきはその先導を崇め奉ることだろう。
それゆえ、リフレ「派」の方々はあべぴょんを讃仰してやまない。
あべぴょんの瑕疵となるものは、反知性的な言動をなしてでも、覆い隠そうとする。
それは、アベノミクスの「出口」という未来を語ることもまた同様であり、未来を語ることは反政権とされ、それはすなわち「反日」である、となされるわけである。
どんな英才だろうと、賭場で大枚賭ければ理性的ではいられなくなる。
それが国をあげてなされているのが、今の日本の状況なのである。
日経さんはあべぴょんを「信じている」が、リフレについては懐疑的である。
だが、少しでも口を挟もうとすれば、たちまち反日とされてしまうだろう。
それと似たようなことが起きたのが戦前であり、起こしたのが高橋是清なのである。