制度というより市民「感覚」の問題


裁判員制度の課題を示した最高裁決定 :日本経済新聞

 

 改めて露呈したということではなく、制度が始まる前から危惧されていたことが、そのまま現実になっただけである。

市民感覚を反映させることが裁判員制度の目的であり、裁判員の判断は十分尊重すべきである。 

 その「市民感覚」とやらが問題なのだ。多くの日本人は「市民」としての意識など持ち合わせていない。持っているのは、殺人にはすぐさま「死刑」と言いたがるという「感覚」だけだ。その辺、がきデカのこまわりくんの頃からさっぱり進歩していない。

 こうした「感覚」がそのまま成長しなければ、たとえば将来移民がやってきたとして、移民が犯罪を犯した場合、容赦なく牙を剥くことだろう。

ところが裁判員には罰則付きで守秘義務が課せられており、評議の様子はほとんど分からない。過去の量刑と市民感覚のバランスのあり方を考えるためにも守秘義務を緩和し、裁判員の経験を社会全体で共有していく必要がある。 

  緩和などせずとも守秘義務などというものは、とっくに破られていると思う。個々の事件について具体的に語らずとも、その体験については、既に共有されていると見ていいのではないか。

 大勢の人間がその経験を通して「市民」の意識を育むことができるか否か……とりあえず、まだ悲観的になるのは早い、としておこう。

 

 さて、実は私は死刑を否定してはいない。

 ただ、死刑という刑罰に値するのは権力者のみ、と考えているだけである。もっと言うなら、国家の最高責任者こそがそれに値する。

 面白いのは、死刑を肯定する愛国者にこの考えを披瀝すると、とたんに死刑否定論めいたことを口にし出すいうことだ。愛国者が愛しているのは、「国」ではなく「権力(者)」だということがよくわかる。

 

 

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