教科書は知性を劣化させるためのものか

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 人々は教科書が嫌いだ。

 「教科書的」などと形容されれば、それは杓子定規な価値を押し付けてくる退屈なものという、揶揄の意味がこめられている。

 そして、どうやら国家も教科書が嫌いだ。

 なぜなら、それがレベルの高いものであればあるほど、国家の形成が疎外されるように思うからだ。

 とくに「歴史」の教科書にその嫌悪は向けられる。

 エルネスト・ルナンは『国民とは何か』でこのように述べる。

忘却、歴史的誤謬と言っても良いでしょう。それこそが一つの国民の創造の本質的因子なのです。だからこそ、歴史学の進歩は往々にして国民性にとって危険です。歴史的探求は、あらゆる政治構成体、最も有益な結果をもたらした政治構成体の起源にさえ生起した暴力的な出来事を再び明るみに出してしまうからです。

 そして、フランス人はこれまでにフランス国内で起きた「虐殺」について、

忘れていなければなりません。

 (以上、鵜飼哲訳)

 と語る。

 自国にとって都合の悪いことは忘却するのが「国民」というものであり、ナショナリズムは忘却によって形成される、というわけだ。

 

関東大震災のときの朝鮮人殺害について「数千人」と書いた教科書は「通説的な見解ではない」と指摘され、当時の司法省が発表した「230人あまり」を併記して検定をパスした。しかしこれも一般的な数字とはいえまい。

 

 「一般的な数字とはいえまい」?

 数字を小さくすることに忘却への誘導があることを指摘しなくてどうする。

 グローバリゼーションがどうとか口先で唱えつつ、19世紀的な国民の形成に勤しむ現政権なのであった。

 ああそうか、これが「トリモロす」というやつか。

 

 

国民とは何か

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