さりげなく移民をディスる日経さん
南仏の観光地は明るく安全と思いがちだが、治安がよい場所ばかりではない。移民も多く、別荘や高級ホテルに滞在する富裕層と相いれない面もある。
ベルギーやバングラデシュなど各国で相次ぐテロも事情は少しずつ異なるものの、移民政策や貧富の差が絡むとされる。
普段は、日本にも移民を、な日経さんだがこういうのはどうなんだろうね。
最後に、
移民排除などの動きはかえって対立を深刻化させる。
とはあるが、他の先進諸国に比べればほとんど移民を受け入れていない日本としては、マイナスなイメージばかりが先行するだろう。
こうした問題はゴルディアスの結び目のように、スパッと一刀両断とはいかないものだ。
受け入れなければいいというものでもなく、受け入れればいいというものでもない。
問題は「移民」ではない、という認識に欠けるためにこういう「サルの論理」に陥ってしまうのだ。
人を政治的な暴力にかきたてる衝動は、自らが生まれる前から貧しく、さらに自らの死後も子供らが貧しいままであるという、「歴史」を認識するところからわき上がってくる。
その歴史的貧しさを「貧困」と呼ぶことにしよう。
では、「貧困」のどこから暴力がわき立つのか。
それは人命の軽重に差がつくという、不正義の常態化にある。
富裕層からの貧困層に対する「無関心」が、富裕層を過剰に正当化するために、社会を構成する「正論」として流通してしまうということだ。
それによって人命が軽視される風潮が生まれ、それはやがて社会をとてつもなく不安定にする。
そこから生じるテロリズム(恐怖主義)は、社会を破壊するとともに右傾化させ、対応を誤れば戦争に親和的な国家を形成するようになる。
「貧困」の根源は「格差の放置」にある。
「格差の何がいけないの?」という新自由主義的な物言いは、それこそが「お花畑」と呼ぶべきものだろう。