果たしてあべぴょんは教育勅語を憶えているだろうか?でんでん

 日経さんが、びびった座敷犬みたいにあらぬ方向を向いてワンワン吠えるものだから、社説についてさっぱり書く気になれなかった。

 いつまで続くんだ、この状況。

 ワンワン吠える声に少しは内容がともなっていればいいが、ほとんど以前書いたことの劣化版である。

 きっと、政府だけでなく財務省もまずい感じになりそうなんで、必死で注意をそらそうとしているのだろう。なかなかの忠犬ぶりといえよう。

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 ↑これなんか、保護主義で経済が悪化するとかいう、いつものご託宣はどうしたんだ?という感じで、すっかすかの内容だ。

 

 ところで、昨今の日本を一匹のゾンビが徘徊しているようだ。

 「忖度」という名のゾンビである。

 ほとんど死語になっていたはずなのに、どこからか特殊な電磁波でも降り注いだのか、またぞろ地上をうろつきだした。

 急激な増殖ぶりに、sontakuがO.E.D.に載りそうな勢いである。

 しかし、どうも「忖度」について、まだまだ人々の認識は甘いように思える。

 欧米人なんかはどのように把握しているだろうか。

 B級映画でマフィアのドンなんかが、

 「あいつが交通事故にでもあってくれりゃあいいんだが」

 と口にすると、それを聞いていた手下が「あいつ」を轢き逃げする、みたいなパターンだろうか。まあこれはこれで、トップの人間を「責任」から守るという、「組織」の下劣さがよく表れている。

 日本人なんかはとにかく、「命令される前に動く」なんてことは有能な社員の条件だったりするので、「忖度の何が悪いのか」となったりするだろう。中には美談のようにして語られたりしていることもある。

 下の人間の忠誠心の純粋な発露としての「忖度」ならばまだいい。

 現実の「忖度」とは、あからさまに強制されつつ、それが強制する側の責任とはならない形で、しかもごく日常的に行われるのである。

 例えば旧軍などで、高級将校がどのように「命令」をなしていたか。

 下の人間に荷物を運ばせる場合はこのように言う。

 「その荷物、運んでいいぞ」

 言われた側は敬礼してこう答える。

 「はい、運ばせてもらいます」

 まあ、その時と人によって多少の違いはあれど、だいたいはこういう「呼吸」でなされる。

 こうすると「命令」が命令でなく、まるで下の人間の自発的な忠誠心の表れであるかのようになる。

 こうした形での欺瞞の積み重ねが「忖度」であり、それは表向きは忠誠心の発露でありつつ、実際は強制的な「圧力」である。

 同調圧力という言葉があるが、忖度圧力もまた存在したのである。

 世情語られる「忖度」には、こうした生臭さが欠けているように思われる。

 

 最後に、公共性の高いデマを一つ。

 あべぴょんは教育勅語が言えない。

 

 

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日経さんが書きました

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 まあ、さすがにこれを無視することはできなかったようだが、

 

 政府・与党には昭恵夫人の国会招致について慎重な意見が根強い。しかし様々な疑惑の解明に後ろ向きだと思われれば、政治不信を増大させる結果につながることをよく自覚すべきだ。 

 

 世論に配慮しつつあべぴょんの逆鱗に触れないよう、一生懸命配慮して書いている。この文章だと、総理夫人の証人喚問せずとも疑惑の解明に「前向き」でありさえすればいい、とも読み取れる。上手だねえ、こういうの。

 

 さて、今後どのような展開が考えられるだろう。

 とりあえず、現時点であべぴょんは辞任などまっっっったく考えていないそうだ。それから、稲田の辞任も同様である。

 総理夫人の証人喚問も全力で阻止するだろう。

 で、あべぴょんが今回の事態をどう把握しているかというと、

 「朝日新聞の謀略」

 だそうである。

 えー、信じられないほど幼稚な思考なので、信じなくても構わないし、信じたりしなくていいし、信じて欲しくない。

 とにかく、トランプに対して「僕は朝日新聞に勝った!」と勝利宣言したことで、朝日新聞が怒って謀略を仕掛けてきたんだそうだ。

 こんなレベルでしか状況把握できない人間が首相の座にあるとは、とてもじゃないけどありえない訳で、ありえないんだからありうるはずがないと、普通の頭脳の持ち主なら考えるはずだ。

 まあ、総理についてはどんなデマを流しても良い、と自らが裁判で「完全勝利」することで確定したのだから、これもデマということにしておけばいいんじゃないかと思う。

 一つ確実に言えることは、あべぴょんは「道義的責任」など一ミリも感じておらず、このまま突っ切れるはずだと信じているということだ。

 

 ともあれ、事態はようやく「3合目」と言ったところ。

 さらなる展開が望まれる。

 

 

世界陰謀全史

世界陰謀全史

 

 

日経さんその社説ならもう書いたでしょ

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 共謀罪が重要な問題であることはわかるが……

 以前書いた社説とほぼ同じというのは、どうしたものか。

 同じ繰り言を何度も垂れ流すというのは、日経さんに認知症の兆しがあるのではないのか。

 以前の社説は下の↓で、これを書いてからまだ一月半ほどしか立っていない。

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 以前はとにかく「説明」すればオッケーという話。

 今度は、どんな形であれ「審議」さえ済ませればオッケー、というものである。

 日経さんの言う「十分」とはそう言うニュアンスである。

 

 認知症に限らず、人は往々にして同じことを話して嫌がられることがある。

 同じことを話すことそのものが良くないのであれば、落語家なんぞはとっくに滅んでいるはずだ。

 人が同じことを話して嫌がられるとき、その内容はおおよそがその人の「享楽」に繋がる性質を持っている。

 日経さんの「享楽」とは、政権から距離を置きながらそれを支援してみせるという、部屋の隅のくずかごに丸めたティッシュを投げ入れた時のような、そうした類のものである。

 そうすることで、自らの立ち位置を守って動くことなく、政権の役割を果たさせることができる訳である。はっきり言って、「バカジャネーノ」と思う。

  「享楽」とは、他人から見て無価値の快楽なのだ。

 

 じじいの繰り言に付き合ってるほど暇ではないので、前回の社説について書いたエントリーを上げておこう。

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 こちらももう一度同じことを言わせてもらうなら、テロの防止とかぬかすんなら、「カジノ法案」なんか通してんじゃねえよ。それだけで「テロ」でんでん、いや云々の言い訳なんざウソだとわかるってもんだ。

 

恍惚の人 (新潮文庫)

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裸でも平気な王様たち

 その昔、ヨーロッパの王侯・貴族は国境を越えて婚姻を重ね、幾重にも血縁を結んでいた。

 彼らにとって、自国の民よりもむしろ他国の貴族の方が慕わしい存在であった。

 旧称ECが出来上がりつつあった際にも、国境をやすやすと超える貴族の復権を懸念する声があった。実際、ECの議長をハプスブルク家の子孫が務めていたこともある。

 こうしたアンシャン・レジームとしてのグローバリズムを乗り越えるため、政治的実験として現EUは成立したのだと言える。

 

 現代における新たな経済的グローバリズムは、政治的なそれを嫌悪する。なぜなら、国境を越えての商売は、国境を越えられないものたちを搾取することで、旨味が何倍にもなるからだ。

 経済的グローバリズムも、アンシャン・レジームとしてのグローバリズムも、「上」と「下」の間に越えがたい壁をせっせと作りあげるという共通点がある。

 そして、その壁はおおよそ国境よりも高く丈夫である。

 冷戦を知らない子供たちが壮年となり、経済的グローバリズムは新たな「貴族」を形成しつつある。

 その「貴族」に対抗する戦略として、下々の民らがとった方法がポピュリズムである。よりにもよって。

 

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 ポピュリズムが愚かしい選択であることは論を俟たない。

 だが、その愚かさの淵源は経済的グローバリズムが生み出した、乗り越えがたい「格差」にあることを知るべきだろう。

 「格差」を経済学的に論難することは難しい。現に、一部を除き、経済学者どもはこぞって格差を肯定している。

 しかし、社会的に見れば、「格差」は明らかに多くの人々を「愚か」にする。

 いくら社説で保護主義を難じ、大恐慌の歴史を鑑みて警告を鳴らそうとも、そうした視点がなければ自分のたれた屁に文句を言ってるのと変わらない。

 

 古来、大衆の支持を取り付け名君と呼ばれた王は、洋の東西を問わず、おおむね貴族政治の破壊者としてあらわれた。

 マキャベリ君主論で待望しているのも、そうした王である。

 ポピュリズムによって人々が支持するのも、そのようなタイプの「王」に対してだ。

 祭り上げられた王様は、確かに裸だ。

 しかし、民衆は王様が裸でも平気だし、むしろ裸であることを喜んでいる。

 そして、そんな愚かな民衆を育て上げたのが、「格差」と呼ばれる栄養なのだ。

 「格差」とは、新自由主義を苗床とし、日経さんがせっせと水や肥料をやってそだてた、致死性の甘い毒をたっぷり含む黄金のリンゴなのである。

 

 

裸の王様

裸の王様

 

 

楽はなけれど苦はいつもある

 まずは詫び口上である。まことに申し訳ない。

 昨日以下のようなエントリーで、

osaan.hatenadiary.jp

本来なら、この件について社説を書くべきところを、なにやら別れても好きな人めいたことをだらだらと書いているのは、よっぽどショックだったのか。 

 

 などと嘲弄してしまったが、日経さんはちゃんと社説に書いた。

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 ただし、筆の勢いに任せたひどい書きなぐりで、隠居ジジイの愚痴だってもう少しマシなんじゃないかという仕上がりである。リライトしてまとめた方にはご同情申し上げる。

 ともあれ、要らぬ先入主で侮蔑をなしたことについて、素直に頭を下げたい。

 

 で、もう一つの社説の方なんだが、

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 政府による賃上げ要請という、あべぴょんの人気取りのための田舎芝居だが、さすがに4回目ともなると支持率への効果が薄いようだ。付き合わされる企業側も、いい加減だれてきているようである。

 

 賃金が上がって消費が伸び、企業収益が拡大してそれがまた賃金を増やすという「経済の好循環」を政府は描く。実現のため、政府はやるべきことをやってほしい。

 

 日経さんは政府が「やるべきことをやって」企業の業績を上げさえすれば、賃金も上がって日本経済も好転する、と幼い日の夢を捨てられない成長し損ねた青年のようなことをおっしゃる。

 もはや、企業と労働者が同じ夢を見ていられたハネムーンは終わったのだ。

 現状の日本は、あまりに弱い労組という、高度経済成長期には促進剤となったものが、逆に毒となって身体を蝕んでいるという有様である。

 現政権はその解決にまったく資するところがない。あくまでも改憲することによって永久自民党一党独裁を完成し、総理を王のごとく民があがめる世を作ることに邁進している。

 それは日本を自民党の植民地とすることであり、その目的はとりあえず植民地原住民を低賃金で使役したい企業側の利益と合致している。

 そして、日経さんも「王侯の民への温情に苦言を呈する」という格好で、田舎芝居に参加しているというわけだ。

 こうした同じ演し物を飽きることなく続けられるのは、やはり水戸黄門がずっと続くことと関連しているのだろうか?今度は武田鉄矢だそうだが。

 

 

水戸黄門(1960年)
 

 

アメリカ恋しやほーやれほーな日経さん

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 米国が加わったTPPが理想型なのはたしかだ。しかし、トランプ米政権が近い将来にTPPに復帰するとは考えにくい。

 米国にはいつでもTPPに戻れるように門戸を開けておく。同時に、次善の策として、米国を除く11カ国でTPPを発効できるように、発効条件の変更といった協定内容の部分的な見直しの準備も進める。

 

 なんだか女心の未練というか、いつまでもいつまでも待ってますというか、一昔前の演歌とかニューミュージックみたいな話だ。

 まあ、4年なんかあっと言う間だから、次の大統領に期待したいのかもしれない。

 しかし、世界の現状はこんなもんである。

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 本来なら、この件について社説を書くべきところを、なにやら別れても好きな人めいたことをだらだらと書いているのは、よっぽどショックだったのか。

 EUにおいても保護主義を唱える勢力は徐々に力を増しており、トランプへの配慮というだけでなく、グローバリズムを打ち出す姿勢が弱まってきている。

 残念ながら、先進各国が保護主義に走ったとしても、「経済」がすぐに悪化することはないだろう。

 そんな中で日本はどのように振舞うべきか。ただ一国となっても、「グローバリズム」の旗を掲げるべきだ、などと「お花畑」なことを口にしつつ内心は違っているのは見え見えだ。

 結局アメリカへの未練だけで日本が動いているのなら、他の国々がついてくることはあまり期待はできない。

 それよりもその「未練」を見透かしたアメリカが、恋情冷めやらぬ日本を存分に嬲ってくださることだろう。

 

 

津軽海峡冬景色

津軽海峡冬景色

 

 

経済を忘れた日経さんは歌を忘れたカナリヤよりも価値がない

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 画期的だと騒ぎになっているが、6年経ってやっとまともな判決が出たな、と考えるのがごく普通の感覚だろう。とはいえ、まだまだ先があるのだろうが。

  そして、この判決における重要な点について、日経さんは社説で触れないように気を使っている。

 

 従来の司法判断の流れからみれば大きく踏み込んでおり、唐突な印象も否めない。だが、つねに万一の事態を想定し、安全を確保するための備えを尽くすべきだとする裁判所の考えが明確に示されたことの意味は、重い。 

 

 津波が来ることは想定の範囲であったにもかかわらず、東電の「経済的合理性」を優先したことが問題なのだ。

 原発の「安全神話」を犠牲にすることで、もう一つの神話である「格安神話」を守るためである。

 その背景には、経済を最優先することで、その他の重要な事柄をすべて後回しにする「思想」がある。

 

2002年に巨大地震発生の可能性を示す長期評価が出され、国と東電津波が来ると想定できた。それを受け国は東電に対策を命じる権限があったのに、怠った。判決はそう結論づけた。 

 

 2002年といえば、あの政権である。

 日経さんは、「あの政権」と思想を共有していた。そして、それは今もそのままだ。

 もはや、原発の「安全性」は「経済的」であるとはいえない。それは東芝の例にまざまざと現れている。日経さんが「安全性」ばかりを云々することで、経済性について触れないのは、日本「経済」新聞の名にもとる行いではないのか。

 それから、言わでもの事かもしれないが、今はぬけぬけと「反原発」を口にする、「あの政権」の長についてもう一度評価し直す必要があるだろう。インタビューしたって、どうせ反省なんかしやしないだろうし。

 

 

歌を忘れたカナリヤは、うしろの山へ捨てましょか

歌を忘れたカナリヤは、うしろの山へ捨てましょか