「愛国心を持つのは当然」という詐術
例えば、鄙びた村で宿を取り、その座敷から見える広々とした風景を眺めていると、昼時とて気を利かせた宿の主人が田舎ソバなどを運んでくれ、縁先に座ったままそれを食していると、せいろの縁にふと赤とんぼがとまったりする。このような風情にめぐりあうと、心がせいせいするし、自分の中にこれらのことを素直に受け入れる余裕があることにほっとしもする。
このようなことを「愛国心」と呼ぶなら、それは私とて持ちうるものかも知れない。
そして、多くの人がイメージする「愛国心」とは、このようなものか、これに近いものだろう。
そして、多くの「保守」と称する輩が、「サヨクには愛国心がない」「愛国心は誰もが持って当然のもの」と声高に唱える時も、一般人の心に浮かぶ「愛国心」は前述のようなものであるはずだ。
しかし、「保守」を自称する右翼が、民衆に求める愛国心は、呼び名は同じでも中身が違う。
彼らが民衆に求める愛国心とは、民衆の所有するすべての財産のさらに上位に位置するものであり、民草たちが己の全部を投げうってでも守るべきもの、と考えている。
つまり、一つの言葉に二重の意味を持たせることで、飲み込みやすい片方を受け入れさせることで、もう一方を無理矢理腹中にねじこもうとしているのだ。
さらに、「財産」という言葉を隠し、「身命」に置き換えるることでもう一段の詐術を行う。
「命を捨てて国家のために尽くす」という安っぽいドラマによって、その財産が国家に吸い上げられるという詐術を覆い隠すのだ。
実際、ごく普通の人間は国家よりも己の財産こそが大事であり、所有する財産が膨らめば膨らむほど、そうした愛国心はうすまってゆく。
国家を精神的に強力に統一するためには、下々の個人が所有する財産を出来るだけ奪っておくことが必要となってくる。
そして、下々の者から奪われた財産は、ごく少数の「選ばれた」(と自らを恃む)人間たちが所有することになる。
こうして莫大な財産を得た人間は、愛国心など持たない。
自らの財産以上に国家を愛するなど、人間の本性に反するからだ。
アダム・スミスが「見えざる手」(原著『国富論』では「神の」とされていない)によって、中途半端に述べたことは、上記に相似することではないか?、と『道徳感情論』を読みつつふと思った。無論、アダム・スミスがこのままのことを言っているわけではないが。
「新自由主義」と呼ばれる連中が右翼に親和性を持つのも、このような観点から見ればよくわかる。
また、ただの右翼が「新自由主義」らしきことを標榜し、その仮面をかぶるのもたやすいことだろう。
そして、集団的自衛権とやらを閣議決定するあべぴょんが、愛国心など有していないことは、火を見るよりも明らかである。
ただ、財産家たちは「自分たちも当然愛国心を持っている」と語るだろう。それは前半部で述べた「愛国心」のようなものであり、民衆に求める愛国心とはまったく別物なのだ