ピケティについては語らないが

 

Capital in the Twenty-First Century

Capital in the Twenty-First Century

 

  一部で話題のトマ(ス)・ピケティ『21世紀の資本』は、先月読了している。英訳の方だが。また電子書籍でなく、紙の本を求めた。

 感想と言っても、とりたてて衝撃を受けたようなことはない。向こうの記事やブログエントリーをあれこれ読むうち、だいたいの内容がわかってしまっていたからだ。なんだろう、ネタバレたっぷりの予告編を散々目にしてから本編を見てしまったようなものか。

 

 などとひとりごちていたら、みすずから今年末にも翻訳が出るという。しかも英訳からの重訳である。

トマ・ピケティ『21世紀の資本』(仮)2014年末刊行予定 - みすず書房

 仏語からの翻訳のせいか、ほとんど首をひねるところのない英語だったので、作業はスムーズに進むことだろう。いや、すでに翻訳そのものは終わっているかも知れない。

 訳は山形氏とのことだが、この本は普段の訳者の主張とは食い違う部分が多いように思われる。わりきってさっさとかたづけた、ということであれば良いが。

 

 なお、この本の内容が今後私に影響することは、あまりないだろう。

 現在の日本の経済状況は、一種の不気味な「意思の塊」のようなものに動かされており、ピケティ氏の提案のいくつかは興味深いものではあれど、さして有用ではないように思われるからだ。

 アベノミクスという、「中途半端に終わることを目して」なされる改革(?)により、日本は小泉改革以上に大きく引き裂かれるだろう。この改革(?)は、経済格差の固定化が今後予測されることであるなら、固定化を先取りして無理矢理に格差を広げる、ということを目的としている。何やら、革命を先取りしてマルクスの予言を無理矢理成就させようとしたボリシェヴィキを思い出さなくもない。ソ連に対するマルクス主義側からの批判が大して有効ではなかったように、現在の日本経済が置かれた状況に対して、「経済学」側からの批判はdialogue of the deaf(と、ピケティも使用していたが、フランス語ではどういったのか)になるだけだと思われる。

 それは浜田某が難色を示すにもかかわらず消費税をアップしたことからも見て取れる。浜田某はいい面の皮だったわけだ。

 

 そして問題は、日本国内の半分以上が今もこの改革(?)に期待してしまっているという事実である。

 これについての処方箋は頭に浮かばない。行くところまで行かなければ、誰もそのことに気づかないのかも知れない。