変わることを拒否する人たちを変えるには
以前、こんなエントリーを書いた。
日付を見たら、もう二年以上前だ。月日のたつのは早い。
このエントリーで、別姓に対して頑固に反対する人の心理について、このように書いた。
みんな別に「国家」のことなんか必死で考えてるわけじゃない。
勝手に赤信号の道を横断するやつがいると、「ちっ」と思ってしまう、ただそれだけのことなのだ。
別段、意見の変更があるわけではないが、NHKの調査結果についての記事を読んでいて、もう少し書き足してみたくなった。
小見出しでやや大きく、このような記述がある。
選択制に賛成「別姓には個人尊重と平等の意味が」
これだけとりだしてみると、まるで賛成派は反対派のことを「個人を尊重せず、不平等を肯定する連中」だと言っているかのようだ。
こういうことは、身近な「組織」と呼ばれるものにもままあることで、やりやすいように改革しようとすると、以前からそれでやってきたひとが反対する。
その場合、理屈にもならないような理屈を並べることが多いが、本当のところは「今までやりづらいやり方でがまんしてきた自分がバカにされているように感じる」ということでしかない。
だから、組織を改革する時には、それまでのやり方でやってきた人たちをただ従わせるのではなく、その人の「在り方」について十分な配慮を必要とする。
つまり何が言いたいかというと、夫婦別姓を「認める」ということは、ひるがえって夫婦同姓であっても「別に個人を尊重していないわけではない」ということをきちんと表明しなくてはならない、ということだ。
こうしたメディアによる夫婦別姓についての記事は、そうしたベクトルでの内容をほぼ欠いている。
これではかえって反対派をあおっているようなものだ。
余談だが、夫婦の同姓が法で決められたのは、明治32年である。それ以前は明治期でも「生家ノ氏ヲ称スル」とされていた。
別姓は儒教の伝統によるもので、根本としては「同姓不婚」というところからきている。夫婦が同じ姓を名乗るのは近親婚を肯定するもので野蛮だ、という考えがあったのだ。