◆再稼働で電力不足の解消急げ◆
電力をはじめとしたエネルギーの安定供給は、豊かな国民生活の維持に不可欠である。
ところが、福島第一原子力発電所の事故に伴い定期検査で停止した原発の運転再開にメドが立たず、電力不足が長期化している。
野田首相は、電力を「経済の血液」と位置づけ、安全が確認された原発を再稼働する方針を示している。唐突に「脱原発依存」を掲げた菅前首相とは一線を画す、現実的な対応は評価できる。
首相は将来も原発を活用し続けるかどうか、考えを明らかにしていない。この際、前首相の安易な「脱原発」に決別すべきだ。
◆節電だけでは足りない◆
東京電力と東北電力の管内で実施してきた15%の電力制限は、今週中にすべて解除される。
企業や家庭の節電努力で夏の電力危機をひとまず乗り切ったが、先行きは綱渡りだ。
全国54基の原発で動いているのは11基だ。再稼働できないと運転中の原発は年末には6基に減る。来春にはゼロになり、震災前の全発電量の3割が失われる。
そうなれば、電力不足の割合は来年夏に全国平均で9%、原発依存の高い関西電力管内では19%にも達する。今年より厳しい電力制限の実施が不可避だろう。
原発がなくなっても、節電さえすれば生活や産業に大きな影響はない、と考えるのは間違いだ。
不足分を火力発電で補うために必要な燃料費は3兆円を超え、料金に転嫁すると家庭で約2割、産業では4割近く値上がりするとの試算もある。震災と超円高に苦しむ産業界には大打撃となろう。
菅政権が再稼働の条件に導入したストレステスト(耐性検査)を着実に実施し、原発の運転再開を実現することが欠かせない。
電力各社が行ったテスト結果を評価する原子力安全・保安院と、それを確認する原子力安全委員会の責任は重い。
運転再開への最大の難関は、地元自治体の理解を得ることだ。原発の安全について国が責任を持ち、首相自ら説得にあたるなど、誠意ある対応が求められる。
野田首相は就任記者会見で、原発新設を「現実的に困難」とし、寿命がきた原子炉は廃炉にすると述べた。これについて鉢呂経済産業相は、報道各社のインタビューで、将来は基本的に「原発ゼロ」になるとの見通しを示した。
◆「新設断念」は早過ぎる◆
代替電源を確保する展望があるわけではないのに、原発新設の可能性を全否定するかのような見解を示すのは早すぎる。
首相は脱原発を示唆する一方、新興国などに原発の輸出を続け、原子力技術を蓄積する必要性を強調している。だが、原発の建設をやめた国から、原発を輸入する国があるとは思えない。
政府は現行の「エネルギー基本計画」を見直し、将来の原発依存度を引き下げる方向だ。首相は、原発が減る分の電力を、太陽光など自然エネルギーと節電でまかなう考えを示している。
国内自給できる自然エネルギーの拡大は望ましいが、水力を除けば全発電量の1%に過ぎない。現状では発電コストも高い。過大に期待するのは禁物である。
原子力と火力を含むエネルギーのベストな組み合わせについて、現状を踏まえた論議が重要だ。
日本が脱原発に向かうとすれば、原子力技術の衰退は避けられない。蓄積した高い技術と原発事故の教訓を、より安全な原子炉の開発などに活用していくことこそ、日本の責務と言えよう。
◆原子力技術の衰退防げ◆
高性能で安全な原発を今後も新設していく、という選択肢を排除すべきではない。
中国やインドなど新興国は原発の大幅な増設を計画している。日本が原発を輸出し、安全操業の技術も供与することは、原発事故のリスク低減に役立つはずだ。
日本は原子力の平和利用を通じて核拡散防止条約(NPT)体制の強化に努め、核兵器の材料になり得るプルトニウムの利用が認められている。こうした現状が、外交的には、潜在的な核抑止力として機能していることも事実だ。
首相は感情的な「脱原発」ムードに流されず、原子力をめぐる世界情勢を冷静に分析して、エネルギー政策を推進すべきだ。
日経さんの異常な愛情、または北朝鮮が悩むのをやめて半島非核化とかどうよ?
今回の日経さんの二つの社説は、並べてみると日経さんの「異常な愛情」が透けて見えるようで興味深い。
ただこれだけだとよくわからないかもしれないので、副菜としてその他の情報も付け足してみよう。
まずは、次期首相とも目されている石破くんの考え。
日本は核武装せずに原発を推進している世界で唯一の国です。こんな国は他にはありません。しかし、いつでも核武装できます。おそらく、その気になれば原発でできる原料を用いて1年以内に原爆を持つことができるでしょう。
日本の周りには中国、北朝鮮、ロシア、そして同盟を抜きにして考えればアメリカ、と核保有国が取り巻いています。そういう力に対して抑止力を持つことが必要で、日本が原発を持っていることは、いつでも核武装できるという意味で抑止力になっています。
ですから、原発をやめることは核保有国に囲まれている現状で、自ら抑止力を放棄することを意味します。
そして、2011年9月7日の読売新聞の社説。(文中強調は筆者による)
[読売新聞] エネルギー政策 展望なき「脱原発」と決別を(9月7日付・読売社説) (2011年9月7日)
いかがだろうか、日経さんの原発への「愛情」が、また別な意味を持って立ち上がってくるのがわかる。
決して楽観できないのは確かだ。繰り返すが、その点については同意見である。
しかしそれ以上に興味深いのは、この状況の急転によって、いかに日本の「戦後」という時代が「冷戦」によって支えられて来たか、そしてその「冷戦」とは日本にとって「朝鮮戦争」が大部分を占めて来た、その「異常な愛情」があぶり出されたということである。
将来半島が非核化されたとしても、原発はまだあるわけだから、日本側からすればそれは完全な非核化とは言い難い、となる。だがそれは、まったく「異常な」論として相手にされないだろう。
そして、あべぴょんは「敵対的共犯関係」を一方的に袖にされて、それを追認することでかろうじてプライドを保つことしかできていない。
「天使の一撃」はまったく無痛で一滴の血を流すことなく相手を死に至らしめる、とベンヤミンは言っているが、もし本当に北朝鮮がこのまま「思惑」通りにことを運ぶなら、日本の保守界隈は金正恩からこの「天使の一撃」を食らうことになるだろう。
だからと言って、それが金正恩(とトランプ)への賛辞に繋がることは一切ない、というもの面白い。