日経さんの口が臭い

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 なにやら、通り一遍の社説だ。

 この事件については、ちょっと前にエントリーを書いている。

osaan.hatenadiary.jp

 

 この件について、財政再建を言い立て、そのために福祉の削減ばかりを主張する日経さんも、この口の臭い連中と同類である。

 自らの論の中に、この犯人を煽るものと同成分の言説があったことを無視して、

 

行政や自治体、警察などが一体となって、「地域に開かれ、犯罪にも強い」施設づくりに知恵を絞っていく必要がある。 

 

 などという、他人事のような結論でお茶を濁すのがその証左である。

 

 民主主義の世が長く続き、みんな「身分」というものが社会に対してどのような害悪を垂れ流したのか、記憶が薄らいでいる。

 「身分」が何をもたらすか。それは、「上」のものが「下」に対して無関心になる、ということである。もちろん、そこに「利害」が絡むなら関心を持たざるをえない。しかし、それ以外の部分については、「下」がどんなに苦しもうが、どれだけの人数が死のうが、気にしなくなるのである。

 資本主義が発達することで、富者と貧者の間に新たな「身分」が生じたとき、それと同じことが起きる。

 富者は貧者に対し、全く「無関心」になる。

 そして、日経さんのようなメディアが、富者の側に立って富者の思考や論理や「無関心」を正当化する。

 これがブログのタイトルにした「サルの論理」である。

 繰り返すが、童話「サルカニ合戦」において、サルはカニを搾取した挙句、カニが死んでも全く関心を持たない。

 

 貧者であるにも関わらず、日経さんが散々宣伝しまくった「サルの論理」を身にまとったのが「植松」という男である。

 そんな男が引き起こしたのが今回の事件なのだ。

 

 ピケティの論が提出された時、それに反論しがたいものを感じた「新自由主義者」たちは、こう言って開き直ったものだった。

「うんそうだね。格差は広がる。で、それの何が悪いの?」

 何が悪いのか、それは今回の相模原事件に如実に表れている。

 そして、さらなる問題として、みんなそのことから目をそらそうとしている、ということがある。

 今回の日経さんの社説のように。

 

 

Capital in the Twenty-First Century

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