経済動物と化してゆく、この国民

 エコノミック・アニマル、という呼び名が死語となって久しい。

 それは高度成長期の日本人に対する蔑称とも尊称とも言われたが、他からそう呼ばれた期間よりも、日本人自身がそう自称した時期の方が長かった。経済的な利益を追い求める「アニマル」という呼び名に、肉食動物的なイメージを重ねて誇らしく思えたのだろう。

 エコノミック・アニマルを、そのまま中学生のように直訳すると、「経済動物」となる。現在、「経済動物」といえば、家畜のこととされている。もちろん、エコノミック・アニマルは家畜livestockの意味ではない。しかし、はからずもここに、本質をとらえた呼び名がこだまのように返ってきている。

 日本人は、自己家畜化ならぬ、自己「経済」動物化している、ように思う。

市場原理の浸透 ブラック化する、この国

http://www.asahi.com/articles/DA3S11100991.html

>経済的合理性をすべての行動の基準と考える新自由主義の原理は、わたしたちの「心の奥底」まで浸透しようとしている

 

 他人の弁を借りているが、高橋源一郎はすでに気づいているのではないだろうか。

 とっくの昔に「心の奥底」まで浸透している、ということに。

 であるがゆえの、少子高齢化なのだ。すでにJ.S.ミルが言った通り、子供を持つことは「非効率的」である、ということを皆が「心の奥底」で知っており、それどころか、結婚することまでも「非効率的」となりつつあるのだ。

 これは、増大し続ける人口の問題を解決するという、経済学の最終目的(テロス)へのひとつの答でもある。

 

日本人は少子高齢化という衰退を楽しんでいるのか

http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20140408/262574/?rt=nocnt

 

 YES!! 「正しい」ことを成す喜びを「楽しむ」と表現するなら、まさに「楽しんでいる」と言えるだろう。

 この場合、「正しい」とは、「経済」的に正しい、という意味である。

 我々はすでに、行動の根本において、「経済」的に正しいかどうかをすべてに優先する、「経済動物」と成り果てている。

 であるがゆえに、少子高齢化も、各差社会も、問題だと口では言いつつ、無言の行動や態度でそれを受け容れている。そして甚だ残念ながら、原発についても似たような状況となりつつある。

 「肉屋を支持するブタ」という表現をネットでちらほら見かけるが、このブタたちは自己を効率的に肥育することだけに懸命であるため、子供を作るということをいっさいしないのだ。

 ジョージ・オーウェルが現代の日本を見たなら、新たなる「動物農場」を書いたことだろう。